2015/05/10
VUCAの時代と無常観について②
この間、ある方と話してたら
「どうせ成功するし」とか、
「どうせ愛されてるし」というのをよく使ってました。
聞けば魔法の言葉らしい。
なるほど、潜在意識がどーのこーの言った
セミナーで、そう言ってたようです。
んー・・・・・・喝!(笑)
もしかしたら本当に
そう思っているかもしれませんが、
多分に、心の奥底では拒絶しているはず。
それは我々の無意識(根幹)を変えず、
表層的な枝葉をいじくってるだけに過ぎない。
そもそも自己によって無意識という
超自然的なものを変えられるということは、
大げさに言えば、自分の意識で
太陽を西から昇らせることもできる、
と思ってるようなものでしょう。
問題は黒を白にすることではなく、
黒を黒だと受け止めること。
そしてその黒が「自ずから」白へと
成っていく明明白白さへの信頼です。
西洋がオセロをパタパタ
ひっくり返し、表と裏を区別するのに対し、
日本はオセロ「そのもの」を
眺める事が出来るのですから。
前置きが長くなりましたが、
前回に続き、二回目です。
前回、こういった無常の中に(揺らぎながらも)
安定した自然のリズムがある、と書きました。
変わるものが変わらない、ということ。
unreveの「拍子」でもあります。
世阿弥の序破急も、こういった
自然派生の拍子になっていますね。
なるほど、海は表面こそ飛沫を上げ、
波立っているけれど、
その海底、大海そのものは静寂であるという
仏教哲理のようなものでしょう。
☞ ☞
「分かった、ではその海をどう理解し、捕まえるのか」。
彼らは変化をどうにかして捕まえ、
飼い慣らしたいのです。
それは明治時代、福沢諭吉を初めとした
人間主体である啓蒙思想の核であり、
「物理」の根本であって、
「有形」の領域で全てを網羅(包羅)
しようとする文明開化の精神を端的に表しています。
もちろん、これは決して悪いことではない。
近代、合理的なシステムが整備され、
新たなメカニズムが次々と発明されることで
生活はどんどん便利で快適なものになりました。
ただ無形が有形化され、豊かになった反面、
絶対的な無形である精神、つまり「人」の
根幹となる部分は相対化、客体化され、空洞化していったのです。
北村透谷の「漫罵」にあるように、
それは革命ではなく単なる移動にすぎず、
オセロをひっくり返しただけのこと。
知らず識らずこの移動の激浪に投じて、
自ら殺さざるものまれなり
伊藤仁斎同様、彼もずいぶん前から
これを看破していたのでしょう。
☞ ☞
unreveは伝統である慣習、すなわち
古(いにしえ)から自然派生したものによって
自己や世界を問う方法(面思考)が必要だと思ってます。
(そういった意味では古学かもしれません)
しかし、どんな学も、情報も、思想も、理論も
外部には何一つ確かなものはありません。
さらに言えば内部であってもそう。
自己内部を探究した「だけ」では見いだせないもの。
なぜなら「その内部」はすでに「この外部」
によって浸食されているのですから。
思想は徹底して個人に帰すけれど、
それは固有性と同時に「その時代」の精神です。
例えばこうやって書いている「言葉ひとつ」とっても、
慣れ親しんだ方法、様式、道具に沿った形式であって、
点と点を繋いだ線にしかならない。
故に「内部に対する外的な視点」、
言わば外部の「向こう側」を眺めるということ。
(言葉に限界があるので書きにくいのですが)
この向こう側こそ「根幹」、伊藤の言う
「根ある樹」であり、原典ではないでしょうか。
うーん。。。もう少し書きたいのですが、
このくらいでやめときます。
このテーマは表現が難しいですね。
失敗でした(笑)
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