2015/01/20
根をもつこと
女性哲学者は、その数こそ少ないけれど
その思想には、ある深淵さがあります。
それは多分、女性性の方が男性よりも
見えないものや抽象的な物事である本質を
掴みやすいからかもしれません。
しかし、「巫女薄命」というべきでしょうか。
神がかり的な女性ほど短命です。
池田晶子氏が46歳、シモーヌ・ヴェイユ氏は34歳、
金子みすゞは26歳・・・・あまりにも早い死です。
今日はそんなヴェイユの小話。
池田晶子はカントのように人間の義務は
善への志向性としました。
同じくヴェイユもそうでしたが、その志向性は
ちょっと語りにくいもの。
そのまま、ありのまま。
そんなラディカルな美の形而上哲学とも言えます。
強いから、美しいから、
善いから愛するのではなく、
愛すべきものを自己に取り込もうとするのではない。
対象への支配ではなく逆であり、
(自己)否定からくる(自己)無化的な
人格を純粋な美(善)としたのでしょう(多分)
美意識は千差万別ではあるけれど、本質的な
それ(美)は真理へ至る道だとヴェイユは言います。
☞☞
彼女からすれば、金や名誉、権力などの
享楽への美や愛は単なる享楽であり、間違った美しさです。
本質の美とは、何かを加えたり、
減らしたいと思わないもの。
つまり理由が一切なく、
それ自体が目的として存在している、と。
例えば、自然のありのままの美しさを見た時、
「もっと美しいものがあるはずだ」と比較することはありません。
なぜなら、それ自体がすでに目的として
存在しているという絶対的なものなのですから。
端的に、それを「全力の表現」 と
言えるのではないでしょうか。
☞ ☞ ☞
最近涙もろくなったせいか、小さな子供たちの
運動会を見ていても涙が出そうになります(笑)
全力があまりに神々しいからかもしれません。
ヴェイユ自身書いてはいないのですが、
全身全霊こそ美しさではないでしょうか。
それくらい、力いっぱいというものは人を惹きつけるものです。
ただ、これだけではヴェイユを語ったといえません。
彼女は自己を無化すると同時に
形而上の善へと向かう「人格」があった。
それは「ない」ものを求める「存在がある」という
パラドックスでもあります。
ストイックなまでに真理を追及したヴェイユにとって、
それは耐えがたいものだったのでしょう。
多分に、「根を持つ」ことだけではなく、
「枝を伸ばすこと」も必要であって、
地に足をつけることと、羽を生やすことという
相反する状態が補完的である証拠ではないでしょうか。
ただ、これを書いちゃうと
内容が変わってきますね(笑)
ん・・・・ちょっと書く気がなくなっちゃいました(・・。)ゞ
また機会があれば記事にしようと思います、はい。
(全力で書け)
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