「頭を使って考えろ」と言う言葉がある。
頭で考えるとは、言い方を変えれば脳が考えると言う事だ。
つまり科学者からの「考える」とは頭脳の作業であり、
心ではない、というのである。
我思う、故に我あり。
はたしてデカルトでいうコギト(我思う)とは、脳の事なのだろうか?
最初に言っておくが、これは明らかな「誤解」であり、
その誤解を招いているのは今の「科学」の仕業である。
科学は絶対的な真実を証明させようとしているが、
本来、科学の真実とは、ただの「科学的見解からの事実」にすぎない。
つまりバナナが体に良いといってるように、
ごく一部を切り取って証明しているにすぎないのだ。
それを人は真に受ける、
「科学的根拠」があれば間違いないのだ、と。
何度も書くが、それは明らかな嘘であり、
バナナを食べ続けても100%の健康が保証される訳が無い。
個人的にアンチエイジングの類や病気の原因はストレスだと思ってる。
ストレスを感じない私は風邪など滅多にかからないし、見た目も若く見られる。
当たり前の事だがストレスは科学では証明できない。
ストレスとは感情であり人それぞれ、
感情は数値化・物質化できないのだ。
さて、科学的手法とは5感のみ得られる情報である、
「目に見え、触れられるもの」しか対象としない。
つまり冒頭でいう「脳内」は科学的に証明できるけれど、
肝心の「私たちの心」はどうやっても証明できないのだ。
考えてほしい、我々の心情や情緒、喜怒哀楽と言った「心」は
脳内の活動だけであるのか?と。
そんなことはない、それは植物の種子と同じように
脳をどれだけ細分化してもそこに「心のもと」は出てこない。
リンゴの種をいくら切り取っても細胞しか発見できないのに
土に植え、水をやればあれだけ成長できるではないか。
それは科学では証明できない、
なぜなら植物の生長する上の「生きる力の源」は物質ではないからだ。
そんな小学生にでも分かるようなものを
科学ではどうしても理解できない。
「目に見えないが明瞭な事実」が気に食わないのだ。
例えを変えて「夢」を考えてみよう、
一般的に我々は「夢を見る」と言う。
しかし「見る」とは5感の一つである「視覚」であり、
視力がなければ「見る」とは言えないはずだ。
そう考えると一体、夢の中で「どこの何を」見ているのだろうか?
脳内で見開いている「視覚」とは一体何の「眼」の事を指すのだろうか?
さらに夢によっては話す事もできるし、食べることもできる。
これはどう考えても「脳内の仕業」ではない。
つまり夢の中には現実とは異なった「非物質性」があり、
その非物質性を我々は5感以外の「感覚」で認知しているのだ。
感情は感じるものだ、
それ自体は見えないし触れることができない。
それを見て、触れようとする科学とは
なんと浅はかな試みであろうか。
ビジネスもやはり同じ道を辿っている、
経済学者は、経済の動きをどうにかして「科学したい」のだ。
我々は何かを購入する際、感情で決定することが多い。
(価格だけで判断する場合は例外だが)
男性がなぜキャバクラで市場の数倍もするお酒を飲むのか?
女性がなぜホストなどでありえない金額を払うのか?
マーケッターはそれを科学できるというのか?
そんなこと、出来る筈が無い。
科学哲学、認識論、論理学を学んだマッテオ・モッテルリーニ氏の
著書である「経済は感情で動く」は、科学ではどうしても証明できない事実を行動経済学で説明している。
しかしその行動経済学は心理学に近く、
人間の特定パターンを抽出し、最小公倍数を元に作られた「いちモデル」に過ぎない。
つまり人は合理的に答えを求め過ぎ、
それを学術にまで持ちこむことで「支配」したいのだ。
そして「真理と言う名の普遍性」をこの手で触れたいのだ。
この試みはプラトンが「イデア」として追及して以来
観念論として未だに答えが出ていない。
そんな歴史上の天才達が一生を費やしても不可知な事を
たとえ情報化が進んだ現在であっても説明できるのだろうか?
それよりも、私はそんな科学を放棄して
心の声に従って進むことが最短だと感じているのだが、
どうやらそれは巷の「経営コンサルタント」の皆さまに対し
喧嘩をふっかけているようだ。
百歩譲っても、昔の紅白の視聴率のようなイデオロギーで捉え、
求めている対象として推測できるかもしれない、と思うくらいのことだ。
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