2010/11/09
世界共和国とナウシカとグッさん
夜においては、光も音もなく対象も空間もない。
しかし、これは「無」ではなく、そこには、闇が「在る」
~エマニュエル・レヴィナス~
ども、unreveのグッさんです。
いつものように自己中心的に、
そして「風の谷のナウシカを入れつつ」
書いてみようと思います(どんな企みだ・・・)
今回は時間と、ちょっとばかりの
寛大さがある方だけお願いします(笑)
社会秩序という構造はどのようにして成立するのか?
その前提として人間は「暴力」と「優しさ」が
同居しているという、本質構造を知る必要があるのではないでしょうか。
社会の根底にある、暴力性。
フロイトはイド、ニーチェは権力への意思と呼びます。
当然その本質は無秩序で無方向な欲望なので、
集まれば、混沌と無秩序の闘争社会になるでしょう。
そこで(個人的な宗教の起源定義ですが)、
統率という管理方法が「何者かによって」定義する必要が出てきます。
問題は、それを誰がするか。
また、どうやって暴力を制御するか。
多分に、西洋はその多数がもつ暴力性を
一人の人間に集中させ、犠牲にしたのでしょう。
このたった一人の人間を犠牲にすることによって
人間のもう一つの側面である善良性を引き出した。
つまり「罪の意識」によって負い目を感じさせ、
それによって社会に秩序が生まれ、共同体が成立した、と。
また、その犠牲者は神の象徴として潜在的に居座る。
(どことは書きませんが)そんな儀式的なもので
秩序を形成しているのでしょう。
逆を言えば、その秩序は
「すでに死んでいる聖人によって」支配されている。
これが人間は罪人だと言う宗教起源かもしれません。
あくまでも、個人的な意見ですが。
人間の切っても切れない生まれ持った「暴力性」。
それを管理する為には「反対の力」が必要だった。
僕はそんなの、嫌だな~
ルネ・ジラールの欲望論では、
僕らは他人に優越しようとする社会的欲望があり、
結果として相互的な競争が生まれ、
そこからは誰か一人を排除することによってしか
安定した秩序が形成されないと言ってます。
「秩序」というものは安定性が乏しく、
人の根底に潜む暴力性は完全に消えないというのでしょう。
それは今でも心の奥の潜在性として残っている。
特に今はそのタカが外れやすくも感じます。
よって、この暴力性の新しい取り扱い方が、
今後必要ではないでしょうか。
欲望は破壊や所有を伴った活動であって、
自分の「欠けている部分を補うこと」だと言います。
その欠けている部分を得たいがために
人は心の奥底にある「暴力性」が出てしまうので、
それを抑圧する為に「社会制度」が
出来あがったと考えられなくもないです。
制度によって人を縛り不自由にさせ、
共通の共同体に取り入れてしまう制度、
そんな監視社会においては
自分は特別な人間とは考えらず、
その共同体の一部分だと思ってしまいます。
思考や行動など、あらゆるものを
全体としてでしか考えなくなる。
それは秩序こそ生まれるけれど
動物園にいるのと変わりません。
じゃあ・・・・・どうしましょ?と考えたグッさん。
多分、今一番必要なのは欲望を制御させる
外部の法ではなく、
自分で自分を律する事ができる
「自分の法律(哲学)」ではないでしょうか?
欲望は否定しません、しかし「二の次」。
そもそも哲学論理は必ず暴力の世界からのスタート。
そう考えると、哲学の生みの親は暴力であって、
暴力なしには哲学や理性は存在しなかったのかもしれません。
国家の法律に追放、監禁、矯正、処罰等があるように、
哲学にも追放や矯正があります。
つまり法律と哲学は近い。
自分の中に哲学を持っている人は言わば
「自分自身の法律」を持っていると言う事。
つまり自分の暴力性を自分で抑える為の「法」が
哲学なのかもしれませんね。
・・・・・・・・
僕ら(人間は)生来、語るか暴力かという
二つの選択可能性を持っています。
(逃げると言う選択肢もありますが)
そして暴力は最も実現しやすく、また最も簡単な行為です。
現在の資本主義の象徴である「お金」は、
欲望を制限するのではなく、(欲望を)交換し
円滑に流動させるため、作られました。
つまり欲望が良い意味で「すり替えられた」わけです。
絶えず自らを生み出す「生産力」という肯定的なものとして。
しかしそれはあくまでも「本質的な暴力を抑制する為」、
この制御を相互で主体的に認識することが大事なのかな、と
ナウシカのラストあたりで思ったグッさんでした( ̄▽+ ̄*)ラ ラララ ランランラン
ではでは、また次回。
Bless you
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