2014/11/17

有と無と道

リゾームと言う全人格的な人間の相互作用の働く場では、
「場の可能性」を孕んでいる。


例えば芸術や文学、宗教などは、象徴や比喩を自然発生させ、
それはかれらの全人格によって生まれる。


反面、カースト的な階級ないし序列の体系とは
安定感こそあるが、維持が目的の為、
法律、政治的構造ではその可能性は薄い。



今の時代に限らず、
現状維持とは後退していると同じ事なのだ。


上司がリスクを負って革新的な事業に向かうのは
ドラマか漫画の世界であって、本来はリスクを回避する傾向にある。



可能性とリスクはコインの裏表であって、
可能性を提案するということは、言わば「リスクを提案する」事だ。


情熱の伴わないトップダウンのリスク、誰も回避したがるだろう。
ボトムアップからでも途中の関門によって、保留されるか、消される運命だ。


保留された水は淀み、腐る。
流動性のない場は、この階層区別とリスク回避が原因だ。


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一体なぜだろう。
それは前者は、数(量)で人を見ているからだ。
政党のように、「多いか、それとも少ないか」で区別・評価する。


後者は、平等な個人で構成される未組織(非構造)、
かつ相対的に未分化なである。


共同体や仲間集団において、
相互に構成し合い、相互に必要不可欠のものである。


階層派ともいうべき相手から見れば、
リゾームの存在は危険な無政府状態に見える。


それは多分、アンリ・ベルグソンでいう「閉ざされた道徳」のように、
本質的に限定され構造化された排他的集団のもつ規範の体系だからだろう。



オウムはまさに「閉ざされた道徳譜」を持った集団だった。
ただ、そこには教祖をトップとした秩序ある「階層集団」だったのに気付く。


階層派は、規定や法律といったシステム化。
つまり禁止や条件づけの防壁によって、その状態を維持しているのだ。



聖職者とヒッピーの集団はどちらが危険か?
スティーブ・ジョブスはヒッピーであり、
ジハードを正当化するイスラム教徒は聖職者である。



先入的なイメージには答えはない、
我々は本質を認識しなくてはいけない。



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システム論の本質とは何だろう?
システム論はいわば自己維持を目的論的対象とする機械論という考えだ。
反面、我々は動的な関連の中にあってこそのシステムである。


��仮に)人間を集合論で片付けるならば
分析によって正確かつ、絶対的な組織法則が出来あがるだろうが、
一体、それはどこにあるというのだろう?


つまりはFCに限らず、組織管理システムとは微分方程式、
「論理自体が非論理的」という笑えない話なのだ。



これからの組織論を考える際は、構成する「人」と、
「集合体」について再度認識を変える必要がある。


社会学者であるG・A・ヒラリーは、
「共同体」という言葉の定義を九十四種も再検討した。


そして、人々が共同体に含まれているという概念を超えては、
共同体の性質に関する完全な同意はない、と結論付けている。


リゾームが概念ばかりで、とらえどころがなく
はっきりと固定できない理由はまさにここにある。
それらは中心がない、中空的な構造をしているのだ。



老子はそれを車の車輪に例えている。
車輪を構成するスポークが集まっている中心は穴があり、そこは空所である。


車輪を動かすためには軸を入れる場所が必要で、
また、そこは無でなければ役に立たないのだ、と。


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我々が日常使っているコップもそう、
真ん中に空っぽであるからこそ、中に満たすことができる。


水墨画の余白の間、枯山水の余白の間、
家でいう窓と扉、女性の子宮もそうだろう。



つまり無(空)は、単独で存在するのではなく、
有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていくという、
離れる事のできない「絶対的相互依存の関係」なのだ。



世の中の物は形あるものから生まれ、
形あるものは形ないものから生まれる、



老子の説く無とは「0」ではない。
あらゆる「1」を作る可能性をもつ「状態」なのだ。


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リーフ理論では「無(状態)」の概念として
「間・あそび・ゆらぎ」を取り入れている。



よって有である場所に「空間」を作ることで器が出来る、
否、勝手に出来あがる、というべきか。



空間は概念であるが、「強制しない状態」である。
やらざる場をつくるのではない、「やりたくなるような場」を作るのだ。



厳密には立場や役割りではなく、
老子で例えるならタオ(道)の働き。


名の無い「道」、そして名の有る「無と有」。
無は無でなく、無という名が「有る」。


やり方(方法)ではなく、在り方(状態)である。


反面、秩序だけで作ったものは中身がぎっしり詰まった
静的な立方体にすぎない。


そこに何が入ると言うのだろうか?
固定した部分になるしかないのは必然なのだ。


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労働基準法でいう「休憩1時間・週40時間労働」なんて決まりは
リゾーム化された場所では必要ない。


会議は1時間なんてものもないし、定例・定刻もない。
各々が思い立った時がまさに吉日だ。


このような非構造的な特質は中心が無い、
中心は無であっても、構造上の機能には「無」は絶対に必要なのである。



大手チェーンは手書きポップの活用が少ない、
現場を一番知っている店長の権限は少なく、会議は数字の発表会だ。



そんなチェーン店からは何も生まれる事はない。
中小のFCは逆にチャンスである。



他資本であるFCは(本質的に)リゾームに馴染む。
私はそう思っている。

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