「合理化・効率化」というキーワードは
最高の口説き文句であるが、成熟期においては
そこからいったん、離れる必要がある。
そもそも私たちの発想とは、実はかなり縛られている。
縛られた環境とはすなわち「不自然」であるが、
この「不自然さ」こそが経済の秩序を生み出しているのだ。
秩序は自然的に作られたものと
人工的につくられたものがあるが、
僕はこれからは自然派生的な秩序と
人為的な秩序の統合が必要だと思っている。
ヒュームは、人間の意図的な設計のみで作られたわけではないが、
人間の影響は受けている、ということから、
秩序は「自然でも人工でもない第三の範疇(中庸の選択)だ」とした。
機械的な閉鎖システムとは違い、
その秩序概念とは選択の結果であり、
多様性の相互触発である。
問題はその相互性がどれだけフラットかつ、
アン・コントロールで触発されるかだろう。
多くのマネジャーはそういった要因や関連を
考慮に入れず、議論することもなかったのだが、
このような態度は選択か必修かという
問題に対する関心の薄さでもある。
口では弾力性に富んだ、自由度の高い
状態が望ましいとはいうが、
現実問題それほど柔軟にはできない。
マネジャーはある種の「センス」が必要なのだ。
バランス感覚のような「感性」ともいえる。
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構築的合理主義者は、制度の意味を理性を駆使し、
明示的に命題を演繹して人工的に作り上げる事だと信じている。
この考えこそが複雑なシステムを構成するための
最初の原理ともいえる。
我々のような開放系相互作用システムにおいて、
「体系と効率」は演繹として使えないということだ。
かといって帰納かといえばそうでもない。
言わば「アブダクション」に近い。
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