2012/03/08
禅
スティーブ・ジョブスは若い頃から禅に傾倒していた。
禅宗の乙川弘文を精神的指導者とし、
スピーチなどでは禅の教えをよく引用したという。
以前書いたのだが、禅はもともとが
大乗仏教からの派生である。
ただ、不立文字が原則のため
仏教のように経典はなく、教外別伝。
(言葉や文字で伝えられない為、心から心へと伝えるもの)
そして師資相承(師から直接教えられる)性質を持つ。
暖簾分けの「のれん」は、見えない「信頼」を意味する、
それと似たようなものである。
さて、ここ福岡では座禅を行っている所がいくつかある、
「座禅会」というものである。
私は地元の寺で定期的にやっている、
ちなみにここはホームページがあるが、掲載している言葉で以下の様な言葉がある。
入会条件・・・・・・生きている人老若男女
入会費・・・・・・・・無し
会費・・・・・・・・・・気の向くままのお賽銭
用意するもの・・・己の身体 ~
あなたの参加を待ってます。電話のみで来ない人ばかりです。
来ないのなら 電話もしないでください~
なかなかに手厳しい(笑)
ちなみにここの本会員は、10回通わないとなれない。
最近は鬱やらパニック障害やら統合失調症など、
社会病理である精神疾患が多い為か、坐禅を体験に来る方が増えているらしい。
世間一般の坐禅とは「癒される」と
言ったようイメージが先行している。
無我の境地とか悟りとか、
いわゆる「無の状態」というものが実に神秘的に映るのだ。
しかし、実際に経験すれば分かるのだが、
足の痛さがとにかく半端ない、坐り続けると言う事は、想像以上に大変なのである。
だから一回来ただけの人が絶えないという、
なるほど、だからあのHPの文言なんだ、と一人納得してしまったわけだ。
☞☞
さて、私は禅を独立後に学び出し、
いくつか場所を巡ってきた。
知行同一が売りの私だが、
今回はメッキがすぐ剥がれてしまった。
イメージと体がまったく揃わない、
とくに座禅の命といえる呼吸がそろわない。
経験は己の体に積み重ねるもの、
例えば、絵の鑑賞眼を養おうと思うのならば、
色彩理論やら美術史を学んでも意味が無いだろう。
そういえば、刀の目利きを育てるには、
小さい頃から名刀ばかりを見せておくそうだ、
そうすれば自然と、真贋の微妙な違いが
肌感覚で分かると言うのだ。
感覚は情報と違い、共有できない。
禅での文字は不立なのは、暗黙知が暗黙たる所以である。
☞
西田幾多朗の禅の師は雪門玄松。
同級生はあの鈴木大拙である。
水上勉の著書「破鞋(はあい)」ではその生涯が書かれている。
彼の人生のテーマには「禅」と「無」があった。
自分を語りながら無を語り、禅と無を語り、語る事を問う。
座禅とは禅の基本である、そもそも座禅とは存在を「無から座りなおす事」。
二足歩行の人間世界観を文字通り「坐る事」で終局させるのだ。
その座禅から立ち上がるのを
「出定(しゅつじょう)」といい、日常へ戻る。
迷えばまた坐る、これが座禅である。
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