2013/08/13

レーゾン・デートル

こんばんわ、坂口です。
台風の影響で今日は一日オフでした。


幸い、被害はありませんでしたが
他の地域において何事もない事を、願っております。



さて、今日は
共同体論についての回帰的考察です。








共同体組織については古今東西
様々な意見がありますけど、



他者の欲求を強制する近代のシステムには
個人の喪失感による虚しさがあります。




ゲゼルシャフトからゲマインシャフトに
なった、というような共同体の変化ではなく、
各人のアイデンティティが確立できない。



言わば我々が生きて行くために必要な
本質的なものの喪失が起こったわけです。


その本質的なものこそ、個人の
「生きる道の発見」、レーゾン・デートルでしょう。



端的に書けばそれは「かけがえのない存在」
の証明性の不在ということ。



そしてその「かけがいのなさ」とは代替不可能、
そうじゃないですか。



☞ ☞




普通に考えれば、自分は世界に
たった一人しかいません。


別に生物学的なことを並べなくとも、
僕は世界に唯一無二な存在なんですが、



その唯一無二性、というか
その必要性が近代では見いだせない。



近代の必要性とは、間違った恒常性から
派生する偽物であって、



入替え可能、交換可能な存在にしてしまう
暗黙の強制的カテゴライズにすぎません。



システムなのでつい当たり前に感じ
分かりにくいのですが、社会に溢れてますよ。



例えば、僕が病気になったとしましょう、
ちょっと風邪を引いてしまった、と。



この状態ではまだ、体調が悪い僕、
つまり「病体であるいち個人」なんですが、



医療システムの中に組み込まれたら
僕は病院に入ってから、出るまでの間、
いち「患者」となってしまいます。




看護師からも、処方箋を出す人からも
全員から「風邪引いたタイプ」で取り扱われる。



個人名ではなく、何某という「患者」、
これは生徒もそうだし、消費者もそう。
これが近代システムの恒常性です。



つまりシステムに組み込まれた時点で
個人から「操作対象」になってますよね。


「あの患者さんにあの薬を出しといて」と。
一見、当たり前の光景ですが、



「あの車にオイル差しといて」と
なんら変わらないじゃないですか。



これってね、虚しいでしょう。
科学は人を交換可能にしてしまい
寂しいものにしてしまうんですわ。




☞ ☞




現在、多様とか個性を尊重する
流れですが、



多くの人が個性を発揮できない。
なぜなら「すでに患者にされてる状態」で、
唯一無二性を出さないといけないからです。



それは自律的なものでも自己決定的なものでもなく、
さらに今のシステムをさらに発展させ、支援してしまう。



社会は代替可能な個人を求めます。
可能でなければ、社会は機能しないからです。



つまり、今の我々は代替の可能性と
不可能性を同時に重ねた存在であり、




集団的な帰属がなければ守れない
自己同一性は、主体を「代替可能」としています。



道具的存在と、唯一無二の個人。
この二層のバランスの不和こそ、
今のシステムの欠陥であり、



それにより相互理解や絆、冒頭に書いた
「かけがえのなさ」が崩壊しつつあるのかも
しれません。




だから僕は理論で加盟店を
「操作対象」にすることを避ける。




今必要なのは破壊でも、脱却でもない、



言わば常識を疑い「仕切り直し」をする
時期ではないかと思うのです。






1 件のコメント:

  1. SECRET: 0
    PASS:
    個人的に共感出来て気にいっています(^^ゞ共感も出来る記事で興味を持ちました(^-^)また読ませて頂きます☆よかったら遊びにきてください♪私のブログはここ3年分の思い出が詰まってます(*^_^*)私のブログを読んで、感想を聞かせて頂けたら幸いです!

    返信削除