非についての断片的考察。
アーサー・ケストラーは
ギリシア語のホルス(全体)に
粒子を意味する語尾オン(部分)をつけ、
「ホロン」という概念を提案している。
著書は「ホロン革命 JANUS(ヤヌス)」、
ヤヌスとはギリシャ神の2つの顔をもつ神のこと。
ヤヌスとは、内面と外面を同時に見る事が
出来たことから、機能の両方の性格を持つ存在を指す。
ホロン(ヤヌス)は「純粋な部分」も
「純粋な全体」も存在しているのではなく、
全てが交じり合い、部分と全体を
併せ持った「全体子」となっているというのだ。
なるほど、仏教哲学も部分と全体の
無分別である「不一不二」を説いている。
裏も表も中間もなく、相互の縁起によって
構成されるという概念、まさに「統合知」と言えるだろう。
今日はそんなところから。
歴史を振り返って観れば
我々はこの概念結合ができずにいる。
どこでも対立するものを悪と定義し、
争ってるのは、何も中東あたりに限ったことではない。
社内でも学校でも家庭でも、
規模の差はあれ、似たようなことを
やっているということは、
不和は集団には必ず
存在するものだと言えるだろう。
そこでこの「ホロン」の出番である。
そんな集団の不和を解決する概念ではないだろうか。
ルードヴィヒ・フォン・ベルタランフィの
「一般システム理論」でも触れたが、
生命全ては「開放システム」である。
一方閉鎖型ではなく相互開放型、
これが生命(あるいは社会)を構成しているのだ。
集団のなかの個人は自らの「部分性」のために
自己の「全体性」を放棄しているのだが、
実はその部分は全体である「ヤヌス」なのである。
自意識の追究とは冒頭にある「純粋な部分」、
弥栄よろしくやがて振り戻しが起こるだろうが、
急アクセルの蛇行運転を楽しむ人は
あまり多くないのではないだろうか。
(それを体験というのなら勝手にすればいいけど)
世間は戦う相手じゃない。
かといって、べったりと引っ付くものでもない。
ヤマアラシのジレンマよろしく
ある一定の「距離」さえ保てばいいのだろう。
これが「反」ではなく「非」の概念である。
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