2012/02/22
進化か、変化か。
こんにちわUNREVEの代表、坂口です。
毎日寒い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか(^^♪
さてさて、今日は進化論についてです。
現在、我々はサルから進化した「進化論」と
神様が作ったという「創造論」の2つの考え方がありますよね。
進化論は人間の先祖はサルであり、
創造論では人間あくまで人間ということ。
日本では進化論支持者が多いのですが、
あなたはどちら派ですか^^?
ちなみに創造論の考え方の発端は
神学であり宗教です。完全である神様が
我々を造ったのだから人間は「進化も変化もしない」
という普遍(不変)性としての人間定義。
以前はそういった考え方が強かったので
それまでの白人さんたちは「奴隷制度」を正しいと考えてました。
黒人と白人は全く違う生き物だと
思ってたんですね。挙句の果てには
白人の為に黒人は作られている、と。
酷い話ですねー。
存在を定義せず認識だけで考えると
こういった間違いを人はよく犯すんです。
(アメリカは今でもやってますね)
★★★
ちなみにダーウィンは熱心な
キリスト教でした。キリスト教といえば
創造主論の代名詞、そんな彼が皮肉にも
キリスト教に真っ向から対立する進化論を発表します。
理由は奴隷制度に彼自身が悩み否定してたから。
まあ、普通に考えたらおかしいと思いますからね。
そんな本来地質学者・生物学者であるダーウインは
研究の際、同じ生物でも環境によって形を変える事があることを発見したのです。
それが進化論の原点と言える「種の形成理論」
よく勘違いされてますが種の形成理論ってのは
「進化論」ではなく「変化論」。つまり一種の
変態理論なんですがおっちょこちょいな翻訳者により
この国で「進化」と解釈されました。
似てるようで全然意味が違いますよね。
変化は縦横無尽に広がる多様概念である反面、
進化はプラスとマイナスの2項判断。
判断基準が白(進化)か黒(退化)しかないのです、
結果その理論は歪曲され優勢劣敗、というか
弱肉強食の意味合いが強くなり人間の利己的遺伝子
と結託して「植民地支配」に向かいます。
長くなったので続きは次回。
2012/02/10
近場の車窓から
こんにちわ、unreveの坂口です。
この間、一日休みを取って長崎に行って来ました^^
現在、長崎は「ランタンフェスタ」をやってますので、
日帰りお祭りグルメドライブです。
車で約2時間、長崎市街へ到着です。
長崎に来た時に必ず食べるのが
「チャイデリカ 」さんの小籠包。
ここは安くて本当に美味しい。お勧めしますよ^^
さて、食べ歩きと言えばやはり「中華街」、
「ランタンフェスタ」ではこのように、たくさんのランタンが出ております。
これは広場にある龍と鳳凰。
全部「レンゲとお皿」で作ってるんですよ~。
いつ見てもスゴイなぁ~。
お腹が空いたので
「卓袱料理」を食べることに。
卓袱料理とは長崎の発祥の独特なもの、
坂本竜馬も愛したと言われます。
「今宵は卓袱を食すぜよ!」
☞ ☞ ☞
「いらっしゃいませ~」
「洋風と和風、どちらがよろしいですか?」と聞かれ、
和風でお願いしました。
僕好みのレトロな感じです。
たまたま行った先が「wiki」にある画像と同じだったのに
ちょっとテンションが上がりました。
畳に低い椅子、そして漆塗りっぽい円卓。
僕は椅子ありの所へ。
予約してなかったので選ぶコースが
少なかったのが残念でしたが、美味しかったですよ(^O^)
美味しい料理も食べる相手あってこそ、
最近、そんな事を思います(笑)
雲仙・島原・佐世保・・・
長崎は場所によってたくさんの顔を持っていますね。
この間、一日休みを取って長崎に行って来ました^^
現在、長崎は「ランタンフェスタ」をやってますので、
日帰りお祭りグルメドライブです。
車で約2時間、長崎市街へ到着です。
長崎に来た時に必ず食べるのが
「チャイデリカ 」さんの小籠包。
ここは安くて本当に美味しい。お勧めしますよ^^
さて、食べ歩きと言えばやはり「中華街」、
「ランタンフェスタ」ではこのように、たくさんのランタンが出ております。
これは広場にある龍と鳳凰。
全部「レンゲとお皿」で作ってるんですよ~。
いつ見てもスゴイなぁ~。
お腹が空いたので
「卓袱料理」を食べることに。
卓袱料理とは長崎の発祥の独特なもの、
坂本竜馬も愛したと言われます。
「今宵は卓袱を食すぜよ!」
☞ ☞ ☞
「いらっしゃいませ~」
「洋風と和風、どちらがよろしいですか?」と聞かれ、
和風でお願いしました。
僕好みのレトロな感じです。
たまたま行った先が「wiki」にある画像と同じだったのに
ちょっとテンションが上がりました。
畳に低い椅子、そして漆塗りっぽい円卓。
僕は椅子ありの所へ。
予約してなかったので選ぶコースが
少なかったのが残念でしたが、美味しかったですよ(^O^)
美味しい料理も食べる相手あってこそ、
最近、そんな事を思います(笑)
雲仙・島原・佐世保・・・
長崎は場所によってたくさんの顔を持っていますね。
2012/02/08
顧客は忘れない
「昨日の晩ご飯何食べた?」
と急に聞かれて「何だったっけ?」となってしまうのは、
記憶に残るような食事をしていなかった証拠かもしれません。
そもそも、記憶に残る味ってなんじゃらほい、と
今まで記憶に残った晩餐を思い出してみました。
そこで分かったのは2つ、
一つは口に入れなくても想像できるのが条件。
つまり「頭の中でその味を再現できること」。
例えば「カレー」はその代表例ですね。
確実に、大半の人の記憶に残ってます。
つまり「リピート」とは、味の先にあると思うのです。
煎じつめれば、人が外に食事を求めるのは
最終的にはこういった「記憶に残るか否か」
小手先のリピート戦術とは違い、
無条件の選別基準であり、逆を言えば王道です。
「客がリピートしないのは忘れられてるからだ」
と、コンサルタントは言われますが、
「顧客が忘れる」という「忘れる」と、
「だから関係性を」は、リンクするのでしょうか。
例えば「鰻を食べたい」と思った時、
あなたはどこに行きますか?
多分、「味の記憶」に残った所を選ぶでしょう。
再来店する動機は決して「手書きの手紙」を送った所ではない。
この場合「お客様は忘れるもの」という前提はおかしい。
顧客は記憶に残った味は間違いなく「忘れない」から。
だからこそ、記憶レベルに達したお店は
広告宣伝やリピート戦術が必要ないんですね。
カフェや居酒屋など、飲料がメインの場合は
これに「心地(体験)」が含まれますし、
短時間で済ませたいというニーズもありますので、
一概にはいえませんが、
記憶に残るものを提供するという
質的向上が、本来だと思いますね。
2012/02/05
自主性秩序と暗黙知
ケインズとハイエクの論争は有名である、
端的に書けば自由社会と計画社会の対立だ。
極端な自由と極端な管理、この対立構図はどうしても起きる。
思えばアインシュタインとボーアも同じような概念だ。
そしてこの決着(統一論)は未だ提唱されていない。
そもそも両方は共に完璧ではないのであって、両立の模索が必要だと感じる。
「男性と女性はどちらが正しいか?」という質問はナンセンスである。
重要なのは、互いは補完しあう関係性だという認識を持つ事だ。
さて、経済は現在ケインズ主義である、アベノミクスは
政府が積極的に市場に介入するという、ケインズの経済理論そのものだ。
それは曖昧な期待と漠然たる不安の両方を与えている、
復興か?それとも破綻か?
当たるも八卦で考えれば、そのどちらにも可能性があるのだが、
概念として考えた場合、今の社会構造は戦後から全く変化していない、
つまり産業構造は老朽化していると考えられる。
その老朽化している状況を知らず、改革を行うという事は
例えるなら、瀕死の状態下でさらにショック療法を与えるようなものだ。
それは逆に均衡からはずれるような気がしてならない。
現在は資本主義の限界を包含しているのではないだろうか?
希少性という経済学の大前提が崩れ去った。
現在は過剰性から派生した「豊かさゆえの貧困状態」である。
ケインズの予想したのがこの「豊かさの中の停滞」であり、
まさに現在、人の関心が「モノ」に向かわなくなっている状態と同じである。
その「満腹状態」にさらに食事を与えているのが現在の資本主義であり、
政府の介入なのだが、当然それを喜ぶのは大食漢(大手企業)くらいだ。
その負担は末端労働者に向けられる。
それが約4%の失業率であり、ワーキングプア、フリーター、派遣労働であり、
産業空洞化や地方の疲弊なのである。
貨幣は徐々にマネーゲーム的なものとなりつつある。
それは競争して、勝ち抜けするだけのものである。
それと並行して人々は「何か別の価値」を探し求めている。
市場原理と我々の目的は間違いなく変わってきているのだ。
この限界とアンバランスさをいち早く知り、新しい価値へ転換した企業が
次世代をリードする役割をはたすのではないかと思っている。
そこに必要なのがポストモダンな価値の創出だ、
それは成長モデルではない、「脱成長モデル」なのだ。
そこでようやくハイエクの登場である、
中にはハイエクを「完全な個人主義の冤罪腑」と思ってる人がいるが、それは違う。
ハイエクにとって自由とは「強制しない事」である。
自主性秩序とは、非強制においても機能しうる人格のないメカニズムである。
駅のプラットフォームで、我々は足並みを揃えて電車へと乗り込む、
あの大震災では、自生的なコミュニティが生まれた事を実証した。
それは軍隊的に指導されたパレードではない。
指揮者もいなければ管理者もいないのだ。
それを派生されるように腐心するのでは本末転倒だ、
例えるなら精神的、つまり知的秩序を自らの手によって作るという事だ。
それには当然時間がかかる、また人によって概念も違う。
それらを感知し、包括・統合し全体を認知する様が「暗黙知」である。
端的に書けば自由社会と計画社会の対立だ。
ケインズかハイエクか: 資本主義を動かした世紀の対決 (2012/11/22) ニコラス ワプショット 商品詳細を見る |
極端な自由と極端な管理、この対立構図はどうしても起きる。
思えばアインシュタインとボーアも同じような概念だ。
そしてこの決着(統一論)は未だ提唱されていない。
そもそも両方は共に完璧ではないのであって、両立の模索が必要だと感じる。
「男性と女性はどちらが正しいか?」という質問はナンセンスである。
重要なのは、互いは補完しあう関係性だという認識を持つ事だ。
さて、経済は現在ケインズ主義である、アベノミクスは
政府が積極的に市場に介入するという、ケインズの経済理論そのものだ。
それは曖昧な期待と漠然たる不安の両方を与えている、
復興か?それとも破綻か?
当たるも八卦で考えれば、そのどちらにも可能性があるのだが、
概念として考えた場合、今の社会構造は戦後から全く変化していない、
つまり産業構造は老朽化していると考えられる。
その老朽化している状況を知らず、改革を行うという事は
例えるなら、瀕死の状態下でさらにショック療法を与えるようなものだ。
それは逆に均衡からはずれるような気がしてならない。
現在は資本主義の限界を包含しているのではないだろうか?
希少性という経済学の大前提が崩れ去った。
現在は過剰性から派生した「豊かさゆえの貧困状態」である。
ケインズの予想したのがこの「豊かさの中の停滞」であり、
まさに現在、人の関心が「モノ」に向かわなくなっている状態と同じである。
その「満腹状態」にさらに食事を与えているのが現在の資本主義であり、
政府の介入なのだが、当然それを喜ぶのは大食漢(大手企業)くらいだ。
その負担は末端労働者に向けられる。
それが約4%の失業率であり、ワーキングプア、フリーター、派遣労働であり、
産業空洞化や地方の疲弊なのである。
貨幣は徐々にマネーゲーム的なものとなりつつある。
それは競争して、勝ち抜けするだけのものである。
それと並行して人々は「何か別の価値」を探し求めている。
市場原理と我々の目的は間違いなく変わってきているのだ。
この限界とアンバランスさをいち早く知り、新しい価値へ転換した企業が
次世代をリードする役割をはたすのではないかと思っている。
そこに必要なのがポストモダンな価値の創出だ、
それは成長モデルではない、「脱成長モデル」なのだ。
そこでようやくハイエクの登場である、
中にはハイエクを「完全な個人主義の冤罪腑」と思ってる人がいるが、それは違う。
ハイエクにとって自由とは「強制しない事」である。
自主性秩序とは、非強制においても機能しうる人格のないメカニズムである。
駅のプラットフォームで、我々は足並みを揃えて電車へと乗り込む、
あの大震災では、自生的なコミュニティが生まれた事を実証した。
それは軍隊的に指導されたパレードではない。
指揮者もいなければ管理者もいないのだ。
それを派生されるように腐心するのでは本末転倒だ、
例えるなら精神的、つまり知的秩序を自らの手によって作るという事だ。
それには当然時間がかかる、また人によって概念も違う。
それらを感知し、包括・統合し全体を認知する様が「暗黙知」である。
2012/02/02
盲点の共有
コンサルのように、外部から
提携・共同してビジネスを行う際、
クライアントさんとの距離感が
結構大事になってくると個人的に思ってます。
距離感はヤマアラシのジレンマよろしく、
近づきすぎても、離れすぎてもいけないし、
場合によっては誰よりも親密になる・・・
今日はそんな、加減の小話でも。
さて、コンサルとクライアントとの
距離感は近ければ近いほど良い、
と一般的に言われます。
よく、お互いの鼻息が感じるくらいの
距離が必要だと比喩されたりしますが、
あまりにも親密になりすぎると、
自身の持つ「専門性」の軸がぶれてしまう。
例えば、セラピストの方はクライアントの
精神状態に影響されやすいと言いますが、
これは他の業界でもよくある話です。
依頼者の心を共感することで、
同じようなことを感じ、互いの立場が
どんどん近くなってしまう、と。
そうなると、自身の専門性を支える
軸となる部分が、相手軸に偏っていく
可能性があるんです。
☞ ☞
そもそも専門家とは、依頼者の
「盲点」を探すことが仕事です。
それはクライアントが過去の体験によって
蓄積された「捉われ・こだわり」といった、
既成概念や先入観の払拭だったりします。
特にFC関連は大手のイメージが
根強いので、この傾向がとても強い。
そんな捉われを取り除くために、
専門家は「安心感」を腑に落すのも
仕事の一つなんですが、
先ほどの例のように
共感しすぎて、同じように考えてくると
しまいには「盲点」でさえも
共有してしまうという結果になってしまうわけです。
これを僕はよく「ドツボ」と言ってます。
まさに、ミイラ取りがなんとやら、です。
提携・共同してビジネスを行う際、
クライアントさんとの距離感が
結構大事になってくると個人的に思ってます。
距離感はヤマアラシのジレンマよろしく、
近づきすぎても、離れすぎてもいけないし、
場合によっては誰よりも親密になる・・・
今日はそんな、加減の小話でも。
さて、コンサルとクライアントとの
距離感は近ければ近いほど良い、
と一般的に言われます。
よく、お互いの鼻息が感じるくらいの
距離が必要だと比喩されたりしますが、
あまりにも親密になりすぎると、
自身の持つ「専門性」の軸がぶれてしまう。
例えば、セラピストの方はクライアントの
精神状態に影響されやすいと言いますが、
これは他の業界でもよくある話です。
依頼者の心を共感することで、
同じようなことを感じ、互いの立場が
どんどん近くなってしまう、と。
そうなると、自身の専門性を支える
軸となる部分が、相手軸に偏っていく
可能性があるんです。
☞ ☞
そもそも専門家とは、依頼者の
「盲点」を探すことが仕事です。
それはクライアントが過去の体験によって
蓄積された「捉われ・こだわり」といった、
既成概念や先入観の払拭だったりします。
特にFC関連は大手のイメージが
根強いので、この傾向がとても強い。
そんな捉われを取り除くために、
専門家は「安心感」を腑に落すのも
仕事の一つなんですが、
先ほどの例のように
共感しすぎて、同じように考えてくると
しまいには「盲点」でさえも
共有してしまうという結果になってしまうわけです。
これを僕はよく「ドツボ」と言ってます。
まさに、ミイラ取りがなんとやら、です。