2018/03/16
随筆
「思い出の味は何ですか?」、と
聞かれたらいくつか浮かびますが
島根で食べた魚の味は今でも記憶に残ってます。
あれはとにかく美味かった。
「これを食べたら他の魚は食べれない!」
・・・なんて言うほど上品で容量の狭い
胃袋じゃありませんが、まあ美味かった。
この何かを食べて「うまい」と感じたときの
喜びってやつ直接的なものですね。そして、
それは何かを達成したり理解できたときに
感じたものと全く違うことはありませんでした。
知ること、考える事、遊ぶこと、食べること。
つまりこれらに区別なんてなく、
ただそのプロセスが違うだけということでしょう。
例えば困難なことにチャレンジすれば
最初は苦痛しかありません。美味いものを
食べたときのようにいきなり幸せが
飛び込んでくるわけじゃない、
しかしそれを乗り越えた時に感じる
喜びってやつはその苦しさを帳消しに
するどころか包括されてしまいますね。
あの苦しさがあったから今の歓びがある、と。
なるほど。進化の理屈から言えば
否定的なものを排し楽なものを
選んだ方が繁栄に繋がるはずなんだけど、
今でも四苦八苦が残っているということは
淘汰されない理由があるんじゃないかしらん。
だから我々の先輩方は
疲れや苦労に「様」をつけたんじゃないですかね。
労働は最高の酒の友
あたりまえといえば当たり前だけれど
生きてて一番肝心なのは僕ら自身の幸不幸、
何千年前もそうだし何千年後も変わりゃしません。
しかしこの当たり前のことを
教えてくれる人が殆どいません。
いわゆる幸福の思想ってやつです。
あるのはすでに舗装された社会通念の道か
宗教の道か獣道しかない。勘違いしてる人も
いるでしょうが常識から外れた生き方だって
綺麗に舗装されてますわ。ただ常識を否定し
そこから外れるだけで良いわけですから。
ではもしそれで幸福でなかったならどうするか。
たった何十年かの間だけしか生きれないのに
人生の一大事業である幸福の建設を忘れたまま
死期を迎えるなんて、つまらない。勿体ないじゃないか。
僕は人よりちと欲張りな性分ですから
そんなことを考えてしまいますな。
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