2017/12/06
大和心と漢意
「漢意とは漢国のふりを好み、
かの国をたふとぶのみをいふにあらず
大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ
物の理をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」
本居宣長は「玉勝間(たまかつま)」
においてこう説きました。漢意によって
我々の持つ本来の心(古意)が見えなくなる、と。
それは巷で叫ばれているような
近代自我の「わたし」ではなく
もっと深い場所にあるようですね。
てなわけで、今日は前回の続きでも。
宣長が嫌う理性(漢意)とは狭窄した
視野で物事に意味を持たせその結論を
大声で主張するといった身勝手な理性(自我)のこと、
例えばそれは絶対神思想をはじめ、
独裁制やグローバルスタンダードといった
原理原則の思想です。宣長はこうした態度は
古意からはもっとも遠いものだとし、批判しました。
遡れば儒教から来ているかもしれませんね。
あれは陰陽・太極など「モノ」や「コト」を
限定させることにより実体化する認識論、
これにより倫理は道徳となるのです。
しかし(当たり前ですが)原理原則で
人の行動が制限できるわけありません。
例えば最近聞く反社会性人格障害、いわゆる
サイコパスと言われる人たちは良心の制約から
完全に解き放たれているため、罪悪感なしに
なんでもやりたい放題やってのけますよね。
彼らは善悪の区別がつかないのではありません。
区別ができても行動が制御できないのです。
確かに我々には欲があり汚い部分がある。
そりゃそうです、だって動物ですからね。
美味い物を食べたいとか、金が欲しいとか。
自分のやりたいようにやりたいとか。
あいつが憎い、こいつを殴ってやりたい。
良い女とやりたい(失礼)、嫌なものから逃げたいetc・・・
宣長はその感情を(仏教のように)否定しません。
むしろ「誰もが持っている当たり前の
感情や欲望だよね」と肯定しています。
それは真心であってむしろ抑圧、否定する
理性の方が「漢意」であると。確かに
聖人君主で生きる方が無理あります。
ただ巷のセミナーはここで止めてるんです。
「それが自分らしく生きることです!」ってね。
当然ですが、んなわけありません。
そういうことをいつまでもやってるのも「漢意」なんですよ。
自分の本音を誰かれ構わずストレートに
表現することは卑しいこと。下世話な話
ばかりしたり下衆なことに明け暮れることは恥。
それって人間のもつごく自然な感覚でしょう、
この自然(じねん)が宣長や小林の言う大和心なんですね。
その具合や度合いといった「加減」は
本来自然に備わっていると言います。
メビウスの輪よろしくこれ以上やると
ひっくり返ってしまう(度が過ぎる)と察知できると。
それを無視して自分を出している人は
ありのままの自分などではなく裸の感性を
漢意によって騙してるだけ、それは「獣化」と言います。
もし裸の感性のままなら楽だと言う
理由で手で飯を喰らい、裸で街を歩き、
犬猫のようにどこでも誰とでも腰ふってますわ。
**
しまった、とんでもない間違いを
してしまった、という悶え。
しまった、ついやり過ぎてしまったという自覚。
これが真の理性である、と。
200年以上前の人の言葉ですが
今でも通用するんじゃないでしょうか。
キケロ―よろしく僕はこの言葉を武器にして
絶賛増殖中の「ありのままゾンビ」と戦ってますよ。
「おまけ」
余談ですが以下の6つのうち、3つ以上
当てはまる人は「サイコパス」の傾向が強いとのこと。
・社会的規範に順応できない
・他人を騙す、操作する
・喧嘩腰で攻撃的な態度
・自分や他人の身の安全を全く考えない
・一貫した無責任さとルーズさ
・他人を傷つけたりモノを盗んでも良心の呵責を感じない
ま、これも原理原則の漢意ですけど(笑)
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