2017/12/27

外はない


年末、徒然なるままに。







日本流について突き詰めていけば
西田哲学(京都学派)に辿り着く。
近代の輸入学問を超克し日本独自の
学問を構築する京都帝国大学はその
存在そのものが壮大なプロジェクトだったようだ。


上記の根幹となった善の研究は
大きく分けて純粋経験・実在・善、
そして宗教との4つからなるが、
端的に言えば矛盾を統合するバイロジック(複論理)、


断絶していながら繋がっているという
禅的な思想であるが福岡氏の動的平衡や
シュナイター、ホワイトヘッドの思想と
西田の生命論である「絶対矛盾的自己同一」
とが非常に類似しているところを見ると
根は一つだろう。それは言語化不能であるが
西田は根底実在(=神)と定義した。


存在の力はすべてそこから派生し、我々は
その「ナニカ」のエージェントなのかもしれない。
無論、言葉にした時点で自我世界である以上
自我の餌食になるのは十分承知なのだが。



閑話休題。
西田は晩年、無限円の概念へと到達した。
(これも言葉では説明できないが)外部が
存在しない内部というクラインの壺の構造。
全てを内部へ包括する無限性の体系であって
弁証法のような同一的統合ではなく、
差異化を繰り返しながら超えていく流れである。


今から今へ個体が自ら動くことによって
新たな今が生まれ、我々はそれに応対し
永遠に解答し続けていく、と。


もし円周率に終わりがあるとすれば、
そこから始まる3ケタの数字は314のような気がする。








さて宇宙は(自己は)クライン壺であるか。
ウロボロスに呑まれた尻尾であるか、それとも頭であるか。


仮にそうであれば「わたし」は周縁の
に所属していることが前提となる。
西田がしばしば意識を鏡と捉えているが
「映す鏡をも映す鏡」である無の場所にいる、と。


ここはもうお手上げの領域なのだが
言えることは客観(俯瞰)ではない。
客観という言葉を使ってしまえば世界と
自己はただ分離するだけ。その意味において
科学的な証明は前提が間違っていると言えるだろう。


無論それが悪いわけではない。科学の
追究において大切なことは「ここは分かる」
だけではなく「ここは分からない」を
明確にすること、いわば限界を知る学問だから。


大事なのは「分からない」を
「分かる」でなく「解る」にすること。
見えない境界線に立つことじゃないかしらん。



unn..



まとまらないので終わります(笑)



「後記」


世界の出来事を眺めていると
他人事のような感覚に陥ってしまうことが
よくあります。僕だけかもしれませんが
「人に優しく」という言葉を聞くと
まるで「人」の部分に「わたし」が含まれていないかのよう、


地球を救うとか、環境に優しくって
言葉はもしかしたら「外側」から見た考え方かもしれませんね。


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