2017/07/11

対象化された理解、という絶頂、あるいは奈落。






さて、他者は「わたし」の認識によって客体化される。


この命題の最大の謎は客体として認識されている
他者が「わたし」から独立した存在(系)として
「私」の前に現れるということだ。


自分の認識であるにもかかわらず、
自分と和合できぬ他者。さて、これは一体何なのか。


このことに注目しない唯我論者は非常に多い。
否、注目しないからこその唯我論なのだろう。
彼らのいう外界は自己の意識の産物であって
実際は知覚された自分以外の人間や現象は
全て幻にすぎないと言う唯我論(自己だけが
存在し、他の系は存在しない)は理論的に 
無矛盾となってしまう性質を持つため、
理論的に崩すことは不可能になるに違いない。 


まさに自縄自縛。
不可能(である)ではなく不可能(になる)。
ネオ・ダーウィニズム然り、理性の牢獄だ。


✍✍✍


(言うまでもないが)上記の不可能性は単に
自己の可視範囲内に限定されたものに過ぎない。


蛇の見る世界と人間の見る世界は違う。
しかしその幻想は確固であるが故、無意識の
うちに自分の意見にあったものしか認められず、
答えに当てはめるように確認するようになってしまうのだろう。


本の中、伝統の中、他者の言葉の中に都合の良い箇所を
見つけては「やっぱりそうだ」と自己を強化していく。
答えありきの行動原理である以上、固執すれば
するほどその思想は傲慢になって行くのは言うまでもない。


なるほど、今は傲慢な蛇ばかりだ。
仮に自己の意識(生命)こそ唯一絶対で
最高の生命であるならばそれはつまり
わたしの愛が究極の愛であるということになる。


であるならばそのちっぽけな
自己慈愛の精神にわたし以外の全人類は
希望を委ねなくてはいけない。実に頼りない神だ。


そんな頼りのない神の言う「完璧な宇宙」
というのは機械のごとき宇宙であって
そこには豊かな精神性や奇跡を受け入れる自由がない、


余白がない。何よりも彼らには謙虚さがない。



うん、やっぱりつまらんな。
君の説く世界は子供だましのオモチャの世界だ。





物事の存在深層に隠れた言語的意味以前の
実在の核心は本質であるのは間違いないが、
自己に対立するものとして客観的に眺めることは不可能だ。


それはフッサールには分かってた。
よって現象と形相の還元を二重に
することで本質直観的を試みたのだろう。


無色透明の普遍。
それをどうやって把握するか。
フッサールの意思を引き継いだ(?)
メルロ・ポンティハンナ・アーレント
その究極ともいえる抽象性から脱却しようと
認識主体が捉える以前の原初的実在性を
直感的に(心で)把握しようとした。


直接的な主体的経験、つまりそれは
過程であって生成であると言う根拠は
「いま・ここ」における我々の現実的な
経験が「流れ(あるいは持続)」であることに他ならない。


うん、やっぱり流れは流れだ。
言葉で捉えた時点で
生きたイカはスルメになってまう。





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