2017/07/16

物念じてのどかなる人こそ、さいはひは見果て給ふなれ



仕事で成功しても私生活が幸せであっても
最高の名声や権利を得たとしても、
いつか必ず死んでしまう虚しい人生において
その救いの役割を担っていたのは宗教だった。


この幸福を「担う」というのがどうも嘘くさい。


例えば親鸞は絶対的な幸福を凡夫の自覚と
阿弥陀の救い(二種深信)と断言したが、
それが出来ない人間が不幸ではないだろう。


そんな不安定でいかがわしくどうにでも
解釈できる反面、全人類が宗教民族関係なく
いつの時代も求めている絶対的なものって
煎じ詰めれば安心と幸福しかないんじゃないかと、改めて実感。


哲学だって、結局は存在と認識だけだもんな(´-`).。oO


今日はそんなところから。



✳︎✳︎✳︎



基本的人権に幸福追求権が含まれる
(アメリカなら自然権ね)ように、
法律でも全員が幸福になる権利があると
制定されてるわけなんだけど、これは上記の
理由からハッキリと定義することが出来ない、
そこで国家は国民総幸福量、GNHなんてものを
作ったけど幸せに尺度や度合なんてないよ。


「人並みの幸せ」なんて言葉があるから人並みより
マシだとか人並みの幸せすら手に入らないって
苦悩する人がでてくるわけでしょ。幸せを求めて
不幸になるなんて本末転倒だもんな。



万人が使えるような幸福を発明してくれる
人はいない。別に釈迦を批判してるわけじゃなくて
他の誰かが通った幸福を鑑賞したり研究しても
「分かる」だけで「信じる」ことはできない。


例えばカントやハイデガーを生涯かけて研究した
学者はカントについてあらゆる事を知ってるけど、
彼らとカントは全く似ていない。それと同じように
幸せな人をどれだけ調べても自分が幸せになるなんてあり得ないわけだ。



自らが具体的に制作し、体現することによって
会得する以外ない。故に幸福は必然的に現象として
現れるはず。「それ」によって精神が充実するのであって
何もない状態でも座禅すりゃ幸せを感じるなんてのは嘘だと思うな。


✍✍✍


ま、この問いは気長にやって行くしかない。
焦ってもしかたないんで、辛抱強く待とう。


思えば、千年前も「昔も今も、のんびりと
待つ事ができる人が最後に幸福になるんだよ」
って、言ってたみたいだしね。



つか千年前の「昔」っていつだよ(笑)




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