世界の黒澤明監督は画家顔負けの
絵コンテを書き素晴らしい脚本を
書いてたことで有名ですが、氏は
それらの才能をすべて「映画」だけに使ってます。
他にもドストエフスキーなどの世界的な
文学を読み漁ったり、ゴッホなどの芸術作品
にも積極的に触れたりしてるけどそれもまた
映画に集約させるためなんですね。
決して小説や芸術で表現しようとしなかったのです。
つまり「あちこち手を広げている」けど
「あちこち手を出していない」ということ。
これ見て「偉大な技術は隔離による自己限定だ」
みたいなことを言ってたゲーテを思い出しました。
広げ、高めたものを極めて狭いものに集中させる。
僕はこれって最高の「技術論」だと思うんです。
こんなイメージ
本質的なものばかり追い求めれば
その膨大かつ抽象的な「思考の沼」に
ハマってしまい、身動きが取れなくなってしまいます。
かと言って小さくまとまってしまうと
表現は浅薄なものとなり面白くないものに
なってしまうでしょう。
一即多、多即一。
そんな「
具体的であって本質的なもの」は
本であれ、器であれ、思想であれ、共通点がありますね。
それはある固有性が軸にありながらも、
多層的なレイヤーを内包しています。
その薄皮を一枚一枚剥がして行けば巨大なものが顔を出すのです。
そういった作品って安易に批判できないし
逆に認めたりするのが難しいんですよね。
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