2017/06/08

加減の定義



小林が生涯貫いた思想を端的に言えば
「中道」と「無私」、いわば統合術と言えるでしょう。

これは妥協(迎合)と似てて非なるもの
一般的な人の考える「調和」ってのは
対立概念の落としどころを探り、
折り合いをつける(折衷案)イメージですが
本来は「どっちも採用」します。


つまりどちらの力も弱るめことなく
第三の道を創造するという「平衡感覚」。
A案かB案かの二者択一ではなく、A案でも
B案でもない新たな道を掴むんです。


見れば仏教的な側面から多くの人が無私を
無我(自分を無くすこと)と誤解してますが
そうじゃない。本来は自由自在に働く心(感性)を得ること、


A案にも行けてB案にも行けるからこそ
観念は固定されず新しいアイデアを
出せるのであって、氏はそれこそが本来の
創造・創作であると言ってるんですね。


知ってる、分かるものを創るのは創造じゃない。
分からんものを創るから、創造と言うんだ、と。



これを僕は間の概念、加減の定義と言ってます。






最近バランス感覚が中道(中庸)だという
認識が広がってるようだけど、大半が双方の
意見を弱めるものになってる気がします。


なるほど、戦後民主主義の毒を嫌というほど
飲まされてきた状態の「選択の基準価値」は
善か悪か、多いか少ないかといった二者択一へと向かうもの、


根幹ではなく枝葉で判断するから
本質の是非より表面の憎悪が先に来るわけだ。



例えば僕は現政権を嫌いぬいてますし、
首相って性格腐ってんなと思ってるけど
それ(彼)の憎悪が「主語じゃない」。


主語(根幹)は民主主義や立憲主義という
ルールを無視している行為です。だから
誰であってもダメってこと。たとえ尊敬する人であってもね。


それが前提にないと単なる好き嫌いといった
個人攻撃になってしまう。そうなると本人も
「目立てばアンチは増えるもの」とか言い出してしまうでしょう。



いやいや主語はお前さんじゃなくて
やってることの「是非」ですわ。
ワタミも「渡邊さん」批判じゃなくて
「強制労働」や「思想の押し付け」という風土です。



安倍然り、おかしな教祖しかり。



もちろんそれを体現しまき散らしてる
本人が一番悪いんですがね(笑)






個人の価値観的な好き嫌いが先行すると
倫理的な是非の判断ができなくなる。



だから個人の価値観をまず疑い
捨てる(無私)のであって、
小林はそこで初めて批評できると言ったんですね。




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