2017/04/01

もらい泣き、嬉し泣き




すべて喜ぶべき事をも、さのみ喜ばず
哀むべきことをも、さのみ哀まず
驚くべき事にも驚かず、とかく物に動ぜぬを
よき事にして尚ぶは、みな異国風の虚偽にして
人の実情にはあらず、いとうるさきことなり

ー本居宣長「玉くしげ」ー



古来の「カナシム」は悲哀だけの
ものではなく、心の働き全てを表していました。
切実な感動もまた「カナシ」だったのです。



嬉しくて泣き、もらって泣き、
感動して泣く。赤ん坊なんて
夕方になるだけで黄昏泣きしますわな。


でもそれが精神の正常な働きであって
むしろ泣かない、泣けない方が心を抑制しているんですね。








先日書いた柳田国男の「涕泣史談」を
見れば、江戸後期~明治期以降「泣く」と言う
行為が少しずつ減少していったと書かれています。


昔の人は感情が高ぶると非常によく泣いていた。
それが次意志の疎通は言葉によって完全に
表現することが可能だと言う理性信仰によって
次第に「泣くのは弱い証拠、幼稚なこと」になっていったのです。


こうして「泣くこと」は徐々に抑制され
明治期には「男は泣かぬもの」という概念が固まったんですね。


時代の通念とは不思議なものですな(゜゜)
つまり心の働きを「つい忘れてしまった」
ではなく上手に忘れる術を自ら持った、ってことでしょう


ちなみに僕はそれを前提(根幹)と定義します。
元が間違ってるなら子も違うだろ、ってね。


アタマはよく嘘をつく。
反面、体は自然ですから実に正直です。


✍✍


閑話休題。
そんな我々の感性(カナシム)行為は
旧人類であるネアンデルタール人から
「他者」に対しても悲しむようになります。


有名なシャニダールには死者を悼み、
遺体に献花したりしていますね。
これは原始の猿人にはなかった行為です。


(専門的なことはわかりませんが)
多分にこの「他者への共感能力」は
ある種の生物的進化ではないでしょうか。
例えば精神的に成熟した人が
自分の人生さえ良ければ他人や
後の世界なんてどうでもいい」なんて
言うわけがありませんよね。


そう考えると循環と持続を大切にしてきた
この国は精神文化を高めることが非常に長けていると言えます。


物質文明は西洋が担い、精神文明は東洋が担う。
だったら次は我々の出番じゃないですか?




結婚式に参加された人は分かるでしょうが
あの場は他者の幸福を祝うことが自分の幸福に繋がってます。


貴方が幸せだから私も幸せ。


そんな原理的に解けないものが
社会を影で繋げているような気がしますね。


 「後記」


「感性」は本能や欲求を超えたもの、
意志もあれば感情もあり習慣や道徳的な
教育の成果もある。そんな多層的な
ものが織り入り混ざったものを主体として
我々は意志決定していきます。


故に感性は心理学者の言うようなものではなく
決して形式化できない場所にあるのではないでしょうか。


宣長さんも人間は弱く女々しいものが
本来であり、勇敢で動じないという雄々しい心は
心を制御した後天的に作られたものだと説きますが、
その一方で本能的なありのままの心情を
さらけ出し、取り乱すのは愚かであるとも言っていますからね。

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