すべて喜ぶべき事をも、さのみ喜ばず
哀むべきことをも、さのみ哀まず
驚くべき事にも驚かず、とかく物に動ぜぬを
よき事にして尚ぶは、みな異国風の虚偽にして
人の実情にはあらず、いとうるさきことなり
ー本居宣長「玉くしげ」ー
古来の「カナシム」は悲哀だけの
ものではなく、心の働き全てを表していました。
切実な感動もまた「カナシ」だったのです。
嬉しくて泣き、もらって泣き、
感動して泣く。赤ん坊なんて
夕方になるだけで黄昏泣きしますわな。
でもそれが精神の正常な働きであって
むしろ泣かない、泣けない方が心を抑制しているんですね。
先日書いた柳田国男の「涕泣史談」を
見れば、江戸後期~明治期以降「泣く」と言う
行為が少しずつ減少していったと書かれています。
昔の人は感情が高ぶると非常によく泣いていた。
それが次意志の疎通は言葉によって完全に
表現することが可能だと言う理性信仰によって
次第に「泣くのは弱い証拠、幼稚なこと」になっていったのです。
こうして「泣くこと」は徐々に抑制され
明治期には「男は泣かぬもの」という概念が固まったんですね。
時代の通念とは不思議なものですな(゜゜)
つまり心の働きを「つい忘れてしまった」
ではなく上手に忘れる術を自ら持った、ってことでしょう。
ちなみに僕はそれを前提(根幹)と定義します。
元が間違ってるなら子も違うだろ、ってね。
アタマはよく嘘をつく。
反面、体は自然ですから実に正直です。
✍✍
閑話休題。
そんな我々の感性(カナシム)行為は
旧人類であるネアンデルタール人から
「他者」に対しても悲しむようになります。
有名なシャニダールには死者を悼み、
遺体に献花したりしていますね。
これは原始の猿人にはなかった行為です。
(専門的なことはわかりませんが)
多分にこの「他者への共感能力」は
ある種の生物的進化ではないでしょうか。
例えば精神的に成熟した人が
「自分の人生さえ良ければ他人や
後の世界なんてどうでもいい」なんて
言うわけがありませんよね。
そう考えると循環と持続を大切にしてきた
この国は精神文化を高めることが非常に長けていると言えます。
貴方が幸せだから私も幸せ。
そんな原理的に解けないものが
社会を影で繋げているような気がしますね。
「後記」
「感性」は本能や欲求を超えたもの、
意志もあれば感情もあり習慣や道徳的な
教育の成果もある。そんな多層的な
ものが織り入り混ざったものを主体として
我々は意志決定していきます。
故に感性は心理学者の言うようなものではなく
決して形式化できない場所にあるのではないでしょうか。
本来であり、勇敢で動じないという雄々しい心は
心を制御した後天的に作られたものだと説きますが、
その一方で本能的なありのままの心情を
さらけ出し、取り乱すのは愚かであるとも言っていますからね。
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