哲学者や本当に知性的な人は
世のことに無関心だと人は言うが、それは違う。
無関心とは精神の麻痺でありそれは
生きながらにして死んでいるも同然である。
かのチェーホフはこんな言葉を残していますね。
小難しく考えながら生きている人は決して
日常生活や人間関係に無関心(冷淡)ではない、と。
逆に彼の言う本当の無関心さとは
何も考えない人(精神の麻痺)のこと。
ちなみに著書「六号病棟」は異常と
正常を主客逆転した作品となっていますね。
ミイラ取りがミイラになったのか。
それとも「ミイラ」が実在なのか。
さてさて、どちらでしょうか。
ミイラになれば変人扱いされ、世間(大衆)から
孤立してしまうのは間違いない。
「人生は忌々しい罠」とはまさにこの圧倒的な事実でしょう。
罠は気付かないから罠であり、全員が
ハマってる以上、自力で抜け出すしかない。
なるほど、故にそれができた人たちは
時代を超える力強い言葉を紡ぐのでしょうな。
多分にそれは、・・・・である証拠かもしれませんね。
(適切な言葉がでてこない)
✍✍
水がなければ魚は死ぬ。水の外に出ると
魚は生きてはいられないんです。
我々にとって言葉とはそういう存在、
それがなければ生きてゆかれないもの、
したがってそれは「生命」そのものなのですが
人はそうとは思っていない。
生命が物理的生命のことだと思っているから
その物理的生命を維持するための「現実」に
とっては言葉なんてのは「所詮」言葉にすぎないと、
甘く見ているわけです。
しかし、それなら例えばその物理的生命が
が明日失われることが確実となったと
想像してみてください。
明日、私は確実に死ぬ。
こう分かった時あなたはどうしますか。
まずはとにかく八方手を尽くして、
何とか生き延びる手立てを探すでしょう。
生き延びようと試みるでしょう。
しかしそれは不可能だと、いかなる
手立てももはやないと分かったらどうしますか。
あなたは必ず「言葉」を求めるはずです。
生死すなわち人生の真実を語る言葉、
正しい考えを語る正しい言葉を必ず求めるはずなのです。
そうしてそれを古今の哲学書、宗教書、聖書や
経典の中に探し出そうとするでしょう。
苦難や危機に際して人が本当に必要とするものは、
必ず言葉であって金や物ではあり得ない。
明日死ぬのか、気の毒だから一億円あげよう。
これでその人は救われますかね。
だから人を救うことが出来るのは
言葉であってその意味で言葉こそが
命なのだと、わたしは言うわけです。
(略)
世の中が息苦しくなっているのだって
言葉が汚れ、汚れた水の中で
生きられなくなっているからにほかならないのですよ。
~池田晶子「暮らしの哲学」より~
自分自身のためにも
そんな言葉を探していきたいと思う、今日この頃。
さて、固い話はこれくらいにして
来週も頑張っていきましょうかね ( ・∀・)=b
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