人は「保守」的にしか生きられない。
過去にたいする信頼の上に生きている人間に
見通しは必要ない。
「自分が居るべきところに居ると言う実感」、
その宿命感だけが人生を支えている。
福田恆存は著書「保守とは何か」において
こう断言してますね。保守とは主義ではなく態度だ、と。
江藤淳しかり、彼もまた保守主義の要諦は
「イデオロギーがないことだ」と述べています。
社会主義、共産主義と同様に保守主義という
イデオロギーも存在するかのようだがそうじゃない、と。
小林も一貫して保守でしたが彼に主張なんてのはありませんでした。
反面、米国は保守「主義」。必ずその集団には
イデオロギー、特定の人間の「都合や主張」がある、と。
まあ、この国も同じような人種が増えてますがね。
左翼とか右翼とか。あれみんなイデオロギーですよ。
ちなみにこの概念(左翼右翼)は
フランス革命から、
民主主義の設立に向け新たな憲法を
作ろうとする際、既存の利益を守るため
王の権利を主張する貴族たちは議会席の
右側に座り、王の権利は制限すべきだと
言う人たちは左の席に座りました。
ここから「保守」と「改革」という
思想までもが分離したんですね。
つまり人間を「分けた」ことが一番の害悪だったのです。
国家しかり、男女しかり、思想しかり。
分離が前提にあるといつか相互理解を捨て
「どっちが正しいか勝負」になってしまいます。
しかし矛と盾の話と同様、決着なんて付きませんわな。
✍✍
閑話休題。話を戻しましょう。
左の人たちは人間の「可能性」を信じています。
己の理性で何でも解き明かすことができて
不可能はないという理性の万能性を説きます。
それに対し右の人たちは人間の「限界」を
説きます。人間の理性など限界があって万能ではない。
だから長年の伝統に従うことが最善だ、と。
さてみなさん。
どちらが正しいと思いますか(゜゜)
まあ人間がなんでも設計できると言うのは
「現時点」では嘘ですね。人間が設計した
秩序が完全でないのは共産主義国家を見れば明らかでしょう。
とは言え、昔からの伝統に全ての答えがあると
言う考えもまた、大変危険なものです。
例えば「伝統は絶対正しいから守れ!」
って言ってるご老人っていますよね。
学者とか専門家の肩書きを持つ人程、うるさい(笑)
しかし、実はそれも「己の理性の働き」
だと言う事に気がつかないわけです。
これも理性万能主義、前提違い。
本居さんはこの働きである漢意が
全ての原因になっていると看破したわけです。順番が違うだろ、と。
よく神道を勘違いした人が天照大神を絶対神とした
偶像崇拝だとし、神勅をイデオロギーと言いますが
そうじゃない。そもそも古神道の天照は太陽そのものでしょう。
本来は教義や教祖など存在せず、万物に神が
宿っているという素朴な自然崇拝であって
それ以上もそれ以下もありません。僕自身
古事記はだいぶ読みましたが、仮にあれを
形而上学で解釈したらそうなってしまいます。
実際そう捉えてる輩もいりようですけどね。
そんな中途半端に神道をかじった人間が
メソッド化と称しセミナーやってますが
そのメソッドそのものを拒絶しているのが神道です。
大和心とは、人間の自然状態。あらゆる事挙げを
排し感覚的事実そのままに即くという感性の世界。
だから右とか左とか主義ではないし、
こうやって書いてる時点でダメなんでしょうね(でも書く笑)
「後記」
「真の保守は集団化しない」と言うのも
イデオロギーがないからこそ常に内省し、
問い続けるからでしょうな。
彼らの眼は権力者らのごまかしや卑劣さや
虚偽を見抜きます。どんな綺麗な言葉で
取り繕っても、どんな理由で正当化しようとも
通用しないのです。
そういやトルストイはこう言ってましたな。
「戦争とは人間の殺し合いにほかならない」と。
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