日本流とは原点回帰、
その原点とは「今この瞬間」を生きること。
否、それすら意識しない状態のこと。
そんなめちゃシンプルな生き方を
神道では中今(なかいま)の思想と呼んでます。
(西田幾多郎で言う永遠の今)
僕の自己中心は同じ場所に回帰しましたが、
最近、そんな人が増えてきましたね。
要するに数の問題だったんでしょう。
変人と呼ばれないようにするには
数を増やしゃいいんです(゜-゜)
要するに数の問題だったんでしょう。
変人と呼ばれないようにするには
数を増やしゃいいんです(゜-゜)
今でこそ「中今」の意味や理由は老後になって
考えるもんだと断言できるんですが(笑)
近代自我のせい(おかげ)で
それが腑に落ちなかった時もありましたな。
回帰しないと原点が掴めなかった、
逆を言えば寄り道したからこそ、
行く道が分かったんでしょう。
行く道が分かったんでしょう。
人間の理性なんかで将来予測や
認識、把握しても限界がある。
だから征服しよう、コントロールしようではなく
「どうやって生み出すか」や
「どう、育んでいくか」が大事です。
それが総じて生きる意味になる、と。
多分、古来の日本人はそう思ってた。
「なぜ生きる」なんて、いらなかったんです。
逆にこれが浄土思想のようなものになると
「なぜ」の意味を分析し、解釈(解決)します。
しかしそれは時代と環境によって変わるもの。
朱子学しかり、あれは動乱の時代によって作られたものです。
「どう、育んでいくか」が大事です。
それが総じて生きる意味になる、と。
多分、古来の日本人はそう思ってた。
「なぜ生きる」なんて、いらなかったんです。
逆にこれが浄土思想のようなものになると
「なぜ」の意味を分析し、解釈(解決)します。
しかしそれは時代と環境によって変わるもの。
朱子学しかり、あれは動乱の時代によって作られたものです。
仏教が生まれた当時のインドでも
カーストである世襲身分制の時代ですから
非常に苦しい世界でした。
生まれた時点で八方塞がりですからね。
だから死後に期待を寄せていたんでしょう。
例えば(ある)仏教は死ぬことを
「往生」と言います。
死ぬのにもかかわらず、「生」の文字を
入れるのには理由があるんですね。
「住」が過去という意味ですから、
往生とは「過去に生まれること」。
つまり死んだら生まれる前の場所である
「極楽」に帰っていくんだよ、と言ってるんです。
だから生きてるうちに徳を積んで
良い事をやれば死んだ後は「極楽」で
幸せに過ごせますよ、と説いたんじゃないかしらん。
(法然や親鸞は全く違うけど)
これはキリスト教でもそう、差別と虐待の
エルサレムの世界で「天国」という死後に希望を寄せてますね。
つまり現状(現実)否定から派生された思想。
個人的にそう思ってます。
☞☞
ちなみに釈迦はそんなことは言ってません。
過去を追うな、未来を願うな、今を切に生きよ。
それだけを説明するのに膨大な量の教えを作ったんです。
その説明の中に四苦八苦を生み出す
無明(自我=自意識)から離れなさいよと、
(多分)言ってるんでしょう。
さらに言えば欲望(自意識)は
完全には消えないので、ほどほどにしろ、と。
(中庸ですね)
聖人君子ではなく、
素っ裸の動物でもないけれど、
聖人君子のようにもなり
素っ裸の動物にもなる。
一枚岩にもなれば
各々めいめい、我が道を行く。
まさにその瞬間によって
変化流動する自己組織化。
それが考える自分と、感じる自分の
あいだ、です。
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