今日は前回からの派生記事。
(派生元はこちら)
さて、最近は量子力学が身近な学問となり
成功哲学とくっついておかしな理論が生まれてますが、
ノーベル物理学賞のリチャード・ファインマン氏は
「量子力学を完全に理解出来る人間は
間違いなく誰もいないだろう」と語ってますね。
科学の場所では間違いだけど、哲学あるいは
文学の場所なら正しいというものはいくらでもあります。
要は立ち位置(前提)の違いってこと。
自分の場所が正しいわけじゃない、と。
だから「日本流」は特定の思想ではなく
逆にそれらを自分で疑い、考え、信じることを勧めているんですね。
また、それだけでは断絶した個人主義に陥る
可能性もあることから、異なる場所を中心とする
対話もまた、大事ですよとお伝えしています。
「あなたの場所でも、私の場所でも正しい」。
それはどちらも内包した「あいだ」、
どっちも排除していない共有地の認識、
多様な植物が生息する土を見るように・・・
たくさんの魚たちが泳ぐ海を見るように・・・
前置きが長くなりましたが
unreve流、組織対話法について(゜゜)です
是を是とし非を非とする。
これを知といい、
是を非とし非を是とする。これを愚という
中国の思想家である荀子は
著書修身でこう書いてます。
修身は儒教派生ですから一見
「善悪二元論」に見えるんですが、
良い悪いを決めなさいというよりも
「人間は価値観の好みや自分の人生観から
物事を区別しているんだから、そこから
何が正しく(是)、何が間違ってる(非)かを
常に考えなさいよ」と言ってるように見えるんですね。
それが出来る人が「知」を持った人で、
他人に強要したり、人が救われると
感違いしてる人が愚な人だ、と。
それはこの国の大和心に通じるもの。
昔の女性も学問ばかりする男は
どうしてこうも馬鹿になるのかと嘆いていたんです
最近は「愚」のセラピストや思想家たちが
「自分らしく」というものを絶対的な是として
動物みたいなウマシカな生き方を勧めていますが
それって考えを放棄した状態でしょう、
正解を言葉や理屈で固めるんじゃないよ。
☞☞
閑話休題。
ちなみに今でもこの「是非」は使われてて、
法律用語としてよく用いられています。
(民法891項、是非弁別能力)
事理弁識能力と同じ概念ですが、
良い事は良い、悪い事は悪いと分かる能力ってこと。
世の中、人の心を含めた全てのものは
永遠に変わらぬものなんて無いからこそ、
判断できる能力を身に付けないといけないんです。
逆を言えば、社会的に正しいとされてても
それで心を理不尽に抑え込む必要もない、と。
どうしても無理なら離婚しても良いし
上司と喧嘩しても良いし、職場から逃げ出しても良い。
そんな言うべきことを、言うべきときに伝え、
場合によっては対立、孤立する覚悟(心構え)が
何故か「社会性の欠如」と言われてますが
バカおっしゃい、欠如しているのはそんな
閉塞・迎合した社会の方でしょう。
ただしい「べき・すべし」はある。
それは常に、内部から起こる絶対命法(ありのまま)です。
☞☞
日本の悪い癖はそんな正しい正しくないを
関係なしにする「是非とも」の精神(結構もそう)、
だから加減を超えたものに流されることのない
是々非々の精神が必要ではないか、と思ってます。
例えるなら優柔不断(是非とも・結構)の
部分を持ちながらも、芯の強さを持った在り方。
僕は日本の歴史からその精神性を感じます。
「自分のため」と「世のため、人のため」は
同じ輪の中、向きが変わっているだけのこと、
一時的な手段であって、目的ではない。
自我中心=場所中心≒自己中心、
二アリーイコール・・・・近くても同じじゃないなって。
それは「しなやかさ」と「強さ」を兼ね備えた
自然っていう、最適なシステムかも(゜-゜)ね。
自己中心は言葉のイメージがついてるから
これから「自他中心」にしようかしらん。
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