戦後、僕らの先輩方たちは
何もない焼け野原からスタートして、
これほどの豊かな国を作ってくれました。
たくさん働いて、たくさんの物を作って発明して。
時には家庭を顧みず、自らが犠牲となり
後世が便利で快適な暮らしができるような
基礎を築いてくれました。
それを想像すると、ほんとーーに
この国に生まれてよかったな、と思います(゜-゜)
しかし、そんな豊かな社会しか知らない僕らは
あまりにも色んなものに目を奪われてしまい、
いつの間にか本当に大事なものに向かうことが
できなくなっているのかもしれません。
「ニーズ」って、何なんだろう。
本当に欲しいものって、何なんだろう。
とまあ、最近考えることがありまして、
ちょっと忘備録的に書こうかなと思います。
(毎回ですが)読み手は自分です(゜゜)よ
さて、僕はマーケッターのように
市場の声というものが聞こえないので
社会が何を求めているかは断言できませんが、
多分に我々は選択肢が欲しいのではなく、
ただ自分の欲しいものが欲しいのだろうな、と思ってます。
問題はその欲しいもの(価値)がぼやけてる、と。
否、その人にとっての価値だけでなく、
商品自体の価値もまた、曖昧になってきているのかもしれません。
そもそも価値の「価」とは表面的な値であり、
「値」とは実質的な値打ちのこと、
つまり実質(本質)的なもの(値)に
適正な値段をつけたもの(価)が本来の商品価値なんです。
以前も少し触れましたが、この「値(あたい)」こそ
「独創」であり、無形の財産ではないでしょうか。
以前「質」と「値打ち」が同義であったように、
売れるから価値があるのではないと思ってます。
それは別に職人の伝統工芸のようなものじゃなくて、
端的に言えば具体的な形式こそないけれど、
何か「独自のもの」が込められてる、ってこと。
例えば僕は昔の本はよく読むけれど
最近の本はほとんど読みません。
話題になってても本屋で立ち読みするくらい。
場合によっては目次だけで終わることもあります。
最近は模倣ばかり。専門家の出す本ですら
過去の偉人の「独創」にあれこれと解釈したり
分かりやすくしているだけだったりします。
(もちろん、違うのもありますけどね)
誤解を恐れずに言えば、それって
学校の先生が教科書の内容をそのまま
黒板に書くようなもの。
下手すればその黒板の内容をさらに
そのままノートにまとめた「三番煎じ」のような
ものだってあります。
僕はそれが編集だとは思いません。
編集がオマージュであるのに対し、
上記のそれはレプリカでありコピーでしょう。
レプリカに熱量や、独創やこだわりはない。
実体験や実感がありませんからね、当然のことです。
それが今までのPB(プライベートブランド)でした。
ご存知の通り、セブンがその既成概念を
ぶっ壊したんですけどね。
つまりこの「ぶっ壊す」こと自体が独創なんですが、
他社はそれに気が付かないのか、何なのか、
セブンが「ぶっ壊して作った道」をまた模倣しているわけだ。
一度出来た道を歩くのは容易いんです。
広がってきた新しい価値観に
「私も前からそう思ってた!」と乗っかるのもそう、
大変なのは、誰の賛同もない状態から作ることです。
☞
日本流のFCは独創でありオマージュです。
西洋のように画一化し、レプリカを増やすものではありません。
故に、だからこそ価値が生まれると思ってます(゜-゜)
「後記」
とは言え、この国にはオリジナルを
オリジナルのままにしているものだってあります。
例えば歴史的遺産や技術はそのままのスタイルで
後世へと継承しますよね。
それを我々は模倣ではなく「伝承」と呼びます。
反面、技術を継承しつつも時代によって
新しく変化させる行為は「伝統」なんです。
後世へと継承しますよね。
それを我々は模倣ではなく「伝承」と呼びます。
反面、技術を継承しつつも時代によって
新しく変化させる行為は「伝統」なんです。
我々は伝統によって価値あるナニカを取り込み
新たな価値を生み出すことが出来る。
自己中心からの「共創」です。
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