時代と共に価値観の大転換は起こるもの。
多分に常識や秩序はいずれ壊されるよう
脆弱な部分を内包しているのでしょう。
しかし、全部が全部壊れているかと言えば
そうではない。壊れているのは「知識(枝葉)」の部分です。
例えば、マルクスやエンゲルスが掲げた
社会主義というものはすでに終わったかに見えるけど、
実際は「知識としての社会主義思想」が終わっただけのこと。
つまり「知識」が新しい時代にそぐわない、
分析するには不十分な材料であると
言っているだけに過ぎない。
本来の「それ」は存在論による葛藤の経緯から
出来上がった思想体系であり、決してマル経のような
亜流とは違うものです。
プラトニズムしかり、
やがて新たな主義として復活するのです。
逆にその力がないものはいずれ終わりを迎え、
二度と復活することはない。
なぜならそれら思想は右往左往したわけでもなく、
混沌と虚無の海から何かを拾い上げたものではないから。
逆にその力がないものはいずれ終わりを迎え、
二度と復活することはない。
なぜならそれら思想は右往左往したわけでもなく、
混沌と虚無の海から何かを拾い上げたものではないから。
既存の影響下から生まれた、対抗自意識(思想)に過ぎないのです。
「アンチ」保守や、「アンチ」資本主義。
そんなもの、ただの「逆張り」でしょう。
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身近なところで言えば自己抑圧に対する
自己表現や、不自由に対する「アンチ自由、解放」。
現在、そんなプチ・イデオロギーが溢れ、
「旧時代の常識なんてもう通用しない」と言ってますが、
そんな反抗期みたいな思想に力が宿ることはない。
本来の「それ」は外部からの抵抗ではないもの。
半ば強迫観念ように、自分を追い込まないもの。
端的に言えば「自然なもの」、個人的にそう思ってます。
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