2016/08/12

【批評】在り方は認識を変えることではない。





「前提認識を変えれば世界が変わる!」




現在、そんな単純な法則が
「在り方」だと言われているようです。




「私たちは常に愛されてるんだ!」


「すべてはパーフェクトなんだ!」



「人間は思い込みの幻想で生きてる!」



「どんな酷い世界でも、自分次第でハッピーになる!」



「世界を変えず、自分を変えよう!」






ポジティブ思考が影を落としたと思えば、
似たような思想がすぐにでて来て足元を掬われる・・・




人に欲望がある限りそれはなくなることはないのかも。




ただ、その「全ては認識次第」ってやつに従うなら、
いきなり誰かに殴られても、大丈夫なのか?




「なんでそんなことすんの!」と怒ったら
「その怒りは君の心の中にある幻想だよ」と言えば、納得するのか?





戦争はじめて、特攻隊にされても
「この現実は認識を変えれば幸せなんだ」って言えるのか?




ネットで滅茶苦茶に悪口書かれてたの見て
「私は愛されてるんだ!」って思えるか?




僕はそんなめでたい理屈は信用できないな。




雨が降ったら地は固まるだろうけど、
降ってる途中はなんだか憂鬱な気持ちになる、



その「なんだか知らない憂鬱さ」こそ、
真っ当な精神の認識じゃないかしらん。









(皮肉が過ぎましたが)
量子力学から派生する唯心論者は
自分の認識を原因(起点)として現実を見てます。



例えば宇宙のビッグバンにせよ、私が
そのように認識しているから存在するのであって、
私が存在しない(認識しない)なら宇宙も地球も存在しない。



まさにシュレディンガーズ・キャット🐈
認識したモノ以外は、存在する事が出来ないってことだ。



その前提から「思考(認識)が世界を創っている」となり、
冒頭のようなまじないが成立するんでしょうが、
そういった人たちは認識ってやつを勝手に解釈してないか。




例えば、その「私の認識」ってやつはどうだ。
どこから生まれたのか、なぜ生まれたのか、
そして「間違いなく私の認識だ」と、答えられるか。




「自分の」経験、どこかで「自分が」得た情報。



それら「見えるもの」だけをひっくるめて
認識と定義することで、その認識(原因)は
すべて幻想だから自分の意思で変えることができると
主張してるんじゃないか。




だったらそれは量子力学ではなく
「神はサイコロ遊びをしない」という
因果関係を話してるじゃないか。
量子力学ではなく、物理の原理でしょう。










さらに突っ込むなら
主観は観測結果を「確認」こそするが、
「観測」することはできない。



よって量子力学では主観から完全に独立した
客観性が存在しないことを証明することは不可能。
僕はそう思ってます。



唯物論(のような唯心論)は「目に見える」以上、
すべてに仕組みや原理があると言い張りますが、
そもそも我々自体が言葉や数字という
不完全なものに頼ってるという事実を見落としてます。




例えばH2Oは水の仕組みであり原理ですが、
それだけでは水を説明したことにならんでしょう。









神の声、宇宙の意思、龍に霊。
ソウルメイトに赤い糸、



嘘じゃないもん、トトロいたもん。




まあ世の中にはそんな不思議なことが
多々ありますが、僕はそんな自分の主観を超えた
経験は確かにあると思ってます。




しかし、それは個別的なものであって
客観性を持つことができない。



また、それは「わたし」から離れた時に
起こることもあるでしょう。無私・没我の精神は
「わたし(個別)」すら、無くすことですからね。



つまり、そういった直接的経験自体は
実在かもしれないけど、客観的事実として
他者へ説明した時点で、偽物です。




なぜなら上記は個人の認識の否定であって
集団の論理を推し進めるイデオロギーですからね。




経験上、分析と俯瞰ごっこで得るものは
上から目線くらいですよ、と。




「後記」




アインシュタインの登場によって物質世界は非常に
エレガントな秩序を計測できるようになりました。
つまり「ああすれば、こうなる」という、
厳密な原因と結果の物理世界を作り出したのです。



憧れなのか何なのか、どうも人はこの
エレガントな秩序や法則を人間の世界にも求めますが、
我々は物質だけでなく精神(自由意思)を持っている以上、
完全なる秩序を作ることはできません。



散逸構造の経済を見れば明らかでしょう。
そこはペッパー君あたりに任せたほうがいいんじゃないかな。




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