トムソーヤの冒険で有名な作家である
マーク・トウェイン。
彼の未完の原稿を使って書かれた作品に
「不思議な少年」というものがあります。
(余談ですが「嫌われる勇気」はこの本のオマージュ)
彼は晩年、人間の種と言う場所を見た。
だからこそ、「利己的な機械」だ、と言ってるのでしょう。
ただ、そっちを志向したらダメだ。
そこを見たら、人間の否定的な部分しか見えない。
彼はそう言っているように感じますね。
光を求めるのなら、まず己の中にある
闇を知らなくてはいけないけど、
大事なのはその闇を知ったあと、どうするかですね。
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さて、この物語は少年たちの前に、
堕天使サタンの甥という天使サタンが
現われたところから始まります。
(天使サタンと書くところが彼の心境を物語ってる)
その天使サタンは少年たちに人間の醜さを
これでもか、って見せつけていくんですね。
例えばある時、一人の女性が
魔女だと濡れ衣を着せられてしまいます。
彼女は人々の病を治していた。
教会に行っても治らない人が彼女の
もとを訪れてると、彼女はその人たちを癒していってたのです。
もちろん、彼女は魔法を使ってた
わけじゃありません。
祈るだけじゃ不十分だから体を清潔にして
栄養取って、休みなさいと言ってただけでした。
実に当たり前な生活の知恵だったんです。
しかし宗教者はこれが気に入らない。
神の使者にはできず、たんなる女性が
人を助けたり癒すなんて許せない、と。
そんな嫉妬ともとれる原因によって
彼女は魔女の烙印を押され、処刑されてしまうのです。
もちろん、これは物語ではありますが、
人間は似たようなことをいつもやってしまいますね。
ジャンヌダルクの処刑(1430年)
サタンは少年たちを彼女が処刑された
場所へと連れていきますが、驚くことに
見物人たちはその女性に石を投げ始めています。
酷い仕打ちですね。助けられていたと言うのに。
当然、少年たちは石を投げたくなんてありません。
彼女は魔女なんかじゃない、と。
しかし、他の人の目がどんどん気になった少年は
やがて自分も石を投げてしまいます。
それを見たサタンは笑い始め
少年たちにこう言います。
人間は羊と同じなんだ。いつも少数派に支配される。
多数に支配されることは絶対にない。感情も信念も抑えて、
とにかく一番声の大きな一握りの人間について行くんだ。
ここにいる人間たちは君たちと同じ気持ちなんだ。
「あの人は魔女じゃない」と思ってる。
でも、この中に数人だけ
人を幻惑させることに喜びを覚える人がいる。
ほら、あそこで大きな声を出している奴らがそうだ。
ほとんどの人は自分ではそう思ってない。
しかしその大きな声に逆らうことが出来ない自分を
認めたくないから、奇声上げて誤魔化すんだな。
明日をもしれない命なのに、自分の内心に嘘をつき
弱いものを糾弾しているわけだ。
これもまた、似たようなことをやってますね。
誤魔化したり正当化するのは常に
「心の働きを抑える理性の働き」です。
どこぞの大統領選のように、自分の掲げている
理論の正当性を証明させるための利用する人もいますし、
ビジネススキルとして使ってる人もいるでしょう。
(まあ、彼は歓びを覚える人の方でしょうけど)
理念の崇高さなど二の次、
大事なのはいかに強烈にイメージを与えるか、です。
ただ、僕の尊敬する人たちは
そのことを十分に分かってます。
だからみんながやってることであっても
「あえて」やらない時がある。
「知らないから、やってない」のと
「知ってるから、やらない」は同じじゃありません。
分かってるからこそ、やらないと選択するんです。
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種としての人の性質などというものは
弱く、脆く、簡単に流されてしまいます。
だから「こういう時は、こうしてしまうのだ」と
ビッグデータや行動心理学によって分析され、
パターン化されてしまいます。
しかし、我々は流される部分だけではなく
流されない強さを持っています。それが自由意思です。
「仕方ないよ、だって人間だもの」と弱さを許すのではなく、
自他の圧力に抗ってでも、自分の素直な心を「ありのままに」現すのです。
僕はそんな人が大好きです。
よくケンカになるんですけどね。
☞
今言われている「ありのまま」の大半は
弱さの肯定です。
それは石を投げつける自分を正当化する、
恣意的な理性の働きです。
確かにそれは万人の、
種が持つ本質のように見えるので
従うことに躊躇わない人もいるでしょう。
しかし、それに従えば従うほど人は
本当の意味の「ありのままの自分」が
見えなくなってくる。
古来の日本はそんな理性には従わず、
真心を志向していたんじゃないか。
だから異質を受け入れる器があったんじゃないか。
僕はそう思ってます。
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