2016/03/25
自然は贅沢を許さない。
画一化や再現可能性においては、
自らの知恵を絞って試行錯誤する必要などはない。
与えられた大量の課題をこなす処理能力と
それに付随する忍耐力だけが求められるだろう。
付け加えるなら、その事に対する
疑いを持たない従順さと正確さ。
その際、マニュアルは非常に便利な道具となる。
つまり画一化とは個人の創造性を拒絶する行為である。
例えばこれが理想の体重を目指そうとジムに通い、
コーチの作ったメニューをこなす場合なら良いだろう。
受験のように、すでに用意された答えを
解く場合も塾に行けば良い。
しかし当然ながら我々の人生にメニューや
カリキュラムなんてものは用意されてない。
理想の「数」なんてものはないじゃないか。
そもそも理想や幸福なんてものは測れないだろう。
故に、全く同じ結果、同じ理想形を
手に入れたとしても、幸せになるとは限らない。
金を10億持ってても不幸に感じる人だっている。
そこに人間の人間たる所以があるんじゃないですか。
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面白く不思議なことに、我々は全く同じ人間を
見たことがない。双子であっても全く一緒ではないだろう。
雪の結晶だって、それぞれが違う。
同じ形は一つとしてない。
いままで降り積もった雪の一つ一つが
全て違うと思うと想像を絶してしまうのだが、
そんなもの、容易いことなのだ。
作れないのではなく、作らない。
これは自然が暗に伝える働きであり、摂理なのだ。
自然は同じものを決して作らない。
そんな贅沢を許さないのだ。
ただ見れば、そういった異なる結晶は
結晶を結晶たらしめる型、パターンがある。
我々人間だってそうだろう、
(基本的に)目は二つ、鼻は一つ。
食って、出して、寝るという行為も
種として変わらない。あるのは程度の違いである。
つまり全く異質ではなく、同一性と
特殊性という矛盾が自己同一しているのだ。
そんな「あいだ」として存在しているのが、
自然の生命であって、それが宿命というものだろう。
喜怒哀楽という異なる感情を持つのもそう、
死ぬまで葛藤という精神の摩擦が起こるのもそう、
命には必ず宿っているもの(宿命)である。
だったらそれこそ、実体と呼べるんじゃないか。
自然はそれが「理想」だと、無言で伝えてるんじゃないか。
☞☞☞
現在、人は異なるものの中に不変を求め、
不変の中に、違いを求めているような気がする。
それが画一的な理想への追究、
つまり「正解探し」ってやつだろうが、
そこは自然からすれば異なる場所、
許してもらえない領域じゃないだろうか。
個性だ多様性だと言いながら、
向かっているのは同じじゃないか、
それを見て見ぬフリをしているんじゃないか。
異ならないものはそれほど存在しない。
道徳や法律のように、たくさんあるものではない。
それを常識だと認識することは難しい事だ。
なぜならそれは常に定義を逃れ、揺らいでいる。
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