孔子の論語の中に「まずは学を勤め、
次に好み、最後は愉しむ」というものがあります。
順序云々は置いときますが、
やはり「楽しむ」という境地に
勝るものはありませんね。
美味いものを食べる。映画を見て感動する。
音楽を聴く、旅行先の温泉に癒される・・・。
人によって楽しみ方は色々あるんでしょうが、
こういった純粋な遊戯に目的なんてない。
幸福だって楽しみですよ。
理由とか正解を探すほうが野暮ってもんだ(笑)。
ひとり温泉、サイコー
そんな感じで、誰だって「無論」の楽しさを
ひとつふたつは持っていると思うんですが、
その「無論」に我々は満足できす
分析したくなるもんですね。
「この料理はどう美味しいのか」とか。
「この温泉は他と比べてここが違う」とか。
明確な意味や答えが欲しくなってくるんです。
その意味の中に「楽しんでいるわたし(ing)」なんて
存在しないけど、ついやってしまうわけだ。
しかし客観的に、明確に語れる楽しさなんて
実際はたいしたものじゃ~ありませんぜ。
本当に楽しけりゃ自分を忘れちゃいますからね。
思い出す時だって、その余韻を味わってるに過ぎません。
☞☞
(理屈っぽく書くと)
主観的に楽しんでいる事象そのものを
説明すると「楽しかった」としか書けないんです。
小学生の日記はそういった意味で真理ですよ。
人に説明する気なんてありませんからね(笑)
他人が理解した「こと」と
実際に本人が味わった「もの」は全くの別物になる。
実に精巧に出来てますがね。
後追いはリアルじゃなく、写真ですよ。
もちろん、そういった仕事や表現を
否定しているわけじゃなく、
人とは共有できないと言ってるわけでもありません。
僕だって星座占いとか見ますしね。
食べログで美味いところはやっぱり美味いと思っちゃう。
ただ、それを人間関係や恋愛など、
全人的に当てはめてる人を見ると
ちょっと危なっかしい方向に向かってる気がするんです。
人はいくらでも変わるもの。
味覚だって価値観だって一定じゃない。
それが1年先か10年先か分かりませんが、
5分後に変わってる可能性だってあるんです。
てことは、今嫌いな人であっても
将来好きになるかもしれない。
それは誰も分からない。分析もできない。
しかし、それが良いんです。
最近、すぐに「見切る」人が多いようですが、
人間ってそんなに浅いもんじゃないですよね。
僕はなるべく身の回りを柔らかくしたいなと思ってます。
いつか意味づけしないものが楽しみになるかもしれませんから。
0 件のコメント:
コメントを投稿