こんばんわ、坂口です(゜゜)
福岡では本日初雪でしたが、
みなさんの地域は雪、降ってますか?
夜明け前が一番暗いと言われるように、
今月は春が来る前の一番寒い時(寒の内)。
特に明後日は大寒ですから、
今週は特に暖かくして、お過ごしくださいな。
さて、この国では当たり前のことですが、
雪というものはやがて溶けていきます。
そして溶けた雪は水になって流れ、
太陽の熱によって蒸発されることで
また雨や雪となって地上に降っていくのですが、
この自然の作り出した循環性とは、
実に上手くできているものだなぁ、と感じますね。
思えば「水」という物質は不思議です。
環境次第で冷え固まることもあれば、蒸発して
水蒸気のように質量を感じなくなるようにもなる。
固いのか、柔らかいのか、
見えるのか、それとも見えないのか。
それもまた、決定することができない。
ただ流れ、巡ることで生命を維持している。
これだけは間違いないと言えます。
多分に水というものは、名詞ではなく
「動詞」として説明するものなのでしょう。
そして、この動詞(流れ)を感じることは
理性的な「わたし」という枠から
抜け出すための第一歩なのかもしれません。
さて、unreveの対話では「動詞で捉える」という
認識をとても大事なこととして考えていますが、
現在この認識を忘れている人が非常に多いようです。
例えば、我々は川を見たとき、
「○○川が流れている」と、名詞から先にきますよね。
もし、見た川が「淀川」だとすれば、
「私が」、「淀川を見ている」わけです。
そうなると、あたかも「淀川」という「もの」が
存在しているかのように、思い込んでしまうんですね。
しかし実際は「水が流れている」という
現象だけしか存在していないじゃないですか。
なぜそう認識するかというと、対象との間に
「わたし」が介入しているからなんです。
☞☞
「我思う」もそう。
本来の我(名詞)などはなく、
あるのは「思う」という状態、動詞だけです。
その現象をそのままに直観できれば、
志向性はより広がりを見せるでしょう。
名詞を意識せず、形容詞やら
動詞だけで場を作ってみると面白いですよ。
例えば「私が世界を面くさせる」という
「面白く」だけに注目してみる。
「これこそ幸福になる方法だ」ではなく
みんなが「幸せ」について考えてみる。
そうすると価値観の異なる他者との中に
普遍を目指す「状態」が共有されるじゃないですか。
「幸せってどんな状態だろうね?」
「どうやれば面白くなるだろう、君はどう思う?」
これが「絶対的」なものへ志向する問いです。
誰も決定していない以上、誰のものでもありません。
その時に初めて、お互いは心を開いた
対話ができるのであって、ここで「わたし」が
先に来ると、心が開くことなんてことはありません。
なぜなら「わたし」が先に来るのはレトリックだからです。
雄弁に自己の理論を一方的に語り、相手に納得させる。
そんな場所に自己なんてありません。
あるのは一方通行の意図、それだけでしょう。
経営者はその中から責任を持って
選ぶ役割なだけ。場を作るのは全員なんです。
それを可能にするのが対話であって、
対話には誰のものでもない「問い」が必要だと
言っているのは、こういった意味なんですね。
「後記」
余談ですが、仏教の無我(無私)というものは
「我を無くしなさい」というものではなく、
「もともと、我なんてないんですよ~」と
気付くのが、本来の意味なんですよ。
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