2016/01/13

多分、そのラインから先は変わらない




「若い頃に想像していた50代と全然違うね」



このあいだ飲んでいた際、そう言われた。
親しくさせて頂いているその人は、今月で52になる。




「イメージと違うんですね」。



「うん、若い頃は別人になるかと思ってたけど」。




思えば、僕も今年で不惑の40だが、
20代と比べても、何も違ってはいない。



僕にとって「40代」は当然ながら
初体験ではあるけれど、だからといって
特別なにかが変わることはないだろう。




世間は変わるのは必然のように言うけれど、
具体的に何がどう変わったかを答えられる人は
たぶんかなり少ない。



三つ子の魂なんとやら。
皺や白髪の数に比例して精神は成熟しないのは
政治家をはじめ、昨今の老害を見るまでもない。



成熟とは変化か、進化か、深化か。
それとも退化か。



それにはまだ答えられないけれど、
我々は長い年月を費やしながら、公的なものと
折り合いをつけていかなければいけないのは間違いないだろう。



しかし、あるラインを超えたところで
私的な「魂」はその折り合いを完全に拒絶する。



自意識ではない奥底から発するその魂の声は
60になろうが70になろうが、変わることはない。




なるほど。小林が言うように
「わたし」は「わたし」以外になることはできないのだ。








ブログを書き始めたのも、それを知りたい
気持ちが多少あったのかもしれない。



ある日を境に、3年分の日記を捨ててしまったが
書き留めたいという気持ちは消えなかったのだろう。



ただ、「ここ」は日記と違い開かれている。
人間同様、「公的」でもあり「私的」な媒体である。



この二項は永遠に決着がつかない。
「書く自由」と「見られる責任」は水平線だ。



自論からすれば、ここは庭のようなもの。
世間に直結する手前の「あいだ」である。



なぜなら、止めるのも、始めるのも
決定権は自分にあるから。



何を書くか、書かないかを
決めるのも自分以外いないじゃないか。



そして、そこからくる責任と自由さが、
まさに庭を庭たらしめているのだ。



故に、実名の書くブログは匿名性では
決して届かない部分を響かせることができるのだろう。
面白くもあり、感情移入できるのは書き手が「リアル」に
近い場所にいるからだ。



とは言え、見てて「大変だろうな」と、
余計なことを考えてしまうものもある。



例えば、若い世代が思想・主張的な事を書き、
結果、世界観として「完成された(させられた)」もの。



いったん人気が出て影響力を持ってしまうと、
エクリチュールよろしく、それを崩すことは
相当に難しいのではないだろうか。




特に、感受性豊かな頃は影響を受けたものを
自己に取り込みながら、進んだり戻ったりを
繰り返されながら作られていくものである。



そんな思想は「部分」であっても全体ではない。
四六時中、小難しいことを考え、書き綴ってる人は
ただの病気だ。



盛り上がったり、落ち込んだり、悩んだりするのは
「まとも」な証拠であって、真面目な僕に不真面目な僕が
同居しているのは「普通」であって、



そのどれかひとつだけで形成された
人格は僕ではないのだ。



☞☞



このブログではバカなことや重たいことなど、
公私入り混じって好きに書いているけれど、



そんな混じり合った自分こそ、
混じりっ気のない、等身大の自分である。



これがもし、一側面的な自分だけを
書き続けなければいけない状況になったとしたら
それはもはや苦痛以外何物でもないだろう。




なぜなら、それは個人ではなく「演者」。
相応しさを要請された「別キャラ」なのだから。




そんな「僕のもの」で始まったものなのに、
いつの間にか「僕じゃないもの」となる可能性が
言葉だけの世界ではよく起こる。




それは「公私」の「私」が分からなくなるということだ。









あるラインと超えたところで
私的な「魂」はその折り合いを拒絶する。



自意識ではない奥底から発する心の声は、
60になろうが70になろうがたぶん変わることはない。




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