大和ごころの本質は「自己中心の経験」です。
反面、成人君主のような人格が優れた人や
歴史的な偉人の教えを守ることは、儒教的なものの考え方です。
江戸時代では、儒教を取り入れた結果、
仁義礼智や忠信孝悌が影響されていたのですが、
それを批判した国学者たちが伊藤仁斎であり、荻生徂徠であり、
本居宣長なんですね。
彼らの言う「本質」とは一体何か。
それが、「私心」を廃した(無私)
「物にゆく道」であり、自らが知覚し、自らの経験として
それを把握するという積極的志向性です。
それ以外の儒教や仏教、キリスト教は
自分の経験とは全く関係のない「聖者の教え」を
理論体系化したものなんですね。
☞ ☞
そんな理論体系化を本居は「漢意(からごころ)」と
呼んでいました。
漢意とは、誰が見ても分かるように
形式化されたもの、道徳教義もそうです。
その前提には、世界の全てを理性によって
説明できる、という意図がある。
つまり万物の現象を人の知性によって
全て知り尽くすことができる、という前提です。
しかし現在、物質はすでに波なのか粒子なのか、
分からないところまで来ています。
皮肉にも世界は語ることも示すこともできないと、
科学によって証明されたわけです。
これは科学者を悩ませたけれど、
反面、我々を自由にしたのではないでしょうか。
西洋をはじめ、漢心のある人はこのフィルターが
強烈に働いていますが、我々が真実だと思ってる事は、
実は、何の保証もありません。
白鳥の概念は「ブラックスワン」が
生まれた時点で崩壊するし、
宇宙の何かが変われば太陽はバカボンみたいに
西から昇るかもしれない、と(笑)
「神はいるか、否か」。
「善の正しさの正統性はあるのか」、
そんな「根拠の根拠性を問う」
ということは、前提に「人間が理解できる」がある以上、
その質問は底が抜けてますよ~ってこと。
健康法なんて分かりやすいですね。
時代と共にどんどん変わってます。
ただ、これは「何も信じられないじゃないか」
といった、虚無主義の発言ではなく、本居は
深く心に感じる「もののあはれ」こそ、信じれるものだとしたのです。
「これだけは間違いなく自分にとって重要だ」
という、自己の確信から派生しているものにこそ、
自分流の道がある、と。
情熱を持ちましょう。
深く心へ訴える「ナニカ」を感じましょう^^
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