2015/11/19
裸の特異点③~真理は矛盾の向こう側に~
こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、三回目となります。
(一回目はこちら)
(二回目はこちら)
さて、これまで場と間(境界線)の
概念について書いてきました。
日々お伝えしているようにそれは二項の統合。
「どっちでもあり、どっちでもない」という
矛盾したものが(揺らぎながら)一つになった状態ですが、
量子の世界もまた、観測されるまで
決定されていないという「矛盾領域」ということです。
例えば真空は、あらゆる素粒子が無限にひしめいた
状態だと言われ、「ディラックの海」と呼ばれています。
なるほど、波がなくとも海は存在してる、と。
そしてこの海もまた同じように万物創造の母胎なのでしょう。
波=物質 海=真空
真空は何もない状態(無)ではなく、粒子と反粒子が
生まれては消える(対生成、対消滅)を繰り返す場所。
これが真空の揺らぎであって、
「ある、ない」と言う決定論の枠の外にあります。
だって「有と無」が永遠に決まってないんですから。
「決める」という概念は意味がないんですね。
この帽子、単色の色で言えますか?
旧来の科学者たちはそんな
非決定論(矛盾律)を嫌います。
全ては物理現象の他に原因などない
(物理的領域の因果的閉包性)のだ、と。
物事は物理法則に従って進むのであって、
リンゴは下に落ちるように「ああすれば、こうなる」、
そう言い切りたいのです。
しかし、特異点とは物理的領域の因果的閉包性が
破れた状態に他ならないんですね。
そして自然現象(自然派生)は必然的に「特異点」が現れる。
我々はその自然現象そのものである以上、
因果を破ることができる存在だと仮定できます。
なぜなら(厳密には断言できないけれど)
自由意志を持っているから。
腹が減っても食べないこともできるし、
自らの意思によって死ぬこともできる。
これらは因果関係を超越していると言えますよね。
☞☞
さて、こういった概念は旧来の
世界観とは全く違うもの、
以前は物質主義、「見えるもの」で決定されていました。
ここから出発したのが第1話に書いた
条件付き因果的閉包性、
法則であり、理論体系であり、
ノウハウということです。
しかし、上記の概念ではそんな理論体系が通用しない。
量子力学によって、今まで支配していた法則に
決定的な欠点が見つかってしまったわけです。
当然、旧来の科学者たちは認めたくない。
アインシュタインも「神様はサイコロを振らない」とし、
何か隠れた変数が「ある」はずだと定義しましたが、
ベルの不等式によって、その理論は崩壊しました。
(彼は良い意味で疑ってたように見えますが)
とは言え、僕は理系ではないので(笑)個人的には
量子力学自体が完璧と思ってるわけではなく、
「矛盾の同一」が完璧(に一番近い)と考えてまして、
矛盾を認めると言う事は、逆に因果的閉包性が
破られたからといって閉包性を否定するものではなく、
それもまた容認する(統合)ということだと思ってます。
これが量子力学など知ってても
引き寄せや願望達成が不可能な理由かもしれません。
奇跡は起きることもあるし 起こらないときもある。
願いは叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。
霊は見えるかもしれないし、見えないかもしれない。
魂は輪廻するかもしれないし、しないかもしれない。
そんな、どちらも断言できない世界からこそ、
自分の個別的な経験世界こそ大事であって。
人事を尽くし、天命を待つというのも
こう言った態度ではないかと。
☞
長くなりましたのでそろそろ締めますか(゜゜)
このように、矛盾がない無矛盾的な理論が
完全だと思われがちなんですが、僕はそうは思いません。
端的に言えば矛盾と真っ向から直面する
思考態度こそ、完全(に一番近い)という考えです。
それをしない状態が「曖昧」であり「中途半端」でしょう。
なぜならその態度は矛盾を恐れ、
問題を途中で放棄しているのですから。
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