僕は「道から外れない生き方」とよく言いますが、人生には正しい道(正道)があって、そこから外れないことが「正しい人生」とは思ってません。
それは道路のように綺麗に車線があるわけでもなく、真っ直ぐでもない。
個人的にそう思ってます。
ちなみに仏教でいう正道は8つあって、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定を指します。
これら八正道は涅槃に至る修行の道、
つまり「聖人(仏)の道」と言われていますが僕はこの道を歩かない。
否、歩いてたんですが途中で諦めました。
以前、小乗(仏教)から大乗まで読み漁り、
図に乗って「悟ってやろう」と実践したけれど、どうも違和感がある。
これは本当に「正道」なのか?と
常に自問自答してたんですね。
そんな疑問を持ちながら
実践すること約2年弱、
自分の精神が整っていないからで、
いつか身に付くだろうと言い聞かせてやってましたがその違和感は消えることはなく、むしろどんどん大きくなっていきましたな(゜゜)
そりゃそうです。僕がやってたのは自縛自縄。
感情を抑圧してただけだったんですね。
結果キレやすくなり、精神も不安定に…
そんな時、過去にこの「聖人の道」を
否定した人と出会います。
このブログではお馴染み、
国学者である本居宣長です。
賀茂真淵との出会いによって、宣長は古事記の解読へ向かう
当時の江戸は儒教や仏教による統治社会でしたが
宣長はこれらを否定し、本来の大和心へ
回帰せよと説いています。
儒教や仏教などは人間の限りある
知恵(かなごころ)であって、本来の「それ」は人智などで
計り知れるものではなく、我々の本来持っている情緒を歪めてしまうと看破したのです。
これにものすごく共感。
なるほど、確かに素朴な人間性を裏切ってる、裏切ってた。
それこそ、違和感の正体だったんだと。
もちろん、ブログでも部分的に使ってるように
全部を否定しているわけではありませんが、そこから僕は「答え」から離れて行ったんです。
宣長の言う「漢意」とは、輸入された
中華思想のことではなく、「理性や理論全て」を指します。
だからでしょう。垂加(神道)を始め、
同じ神道(吉川・吉田・両部・伊勢)など儒教や仏教から派生したものは全て
「漢意」だと論破します。
宣長は孔子、老子、釈迦などの
観念体系から共有される世界観ではなく、自らの目で見つめ心から感じるものを
拠り所にしたんですね。
そんな宣長が説く「物にゆく道(惟神の道)」は
漢意を排すれば自ずから現れると言います。
「理性を加えず、ただ神意に任せよ」。
それは神頼みではなくむしろ
神に頼もうとすら思わない無思想から生まれる
「日に新たに」の精神、まさに「感じることを知っていく」という、
感性と知性が調和された状態だと言えますね。
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宣長の言う古来の日本は
言霊(事挙げ)以前のもの。
言葉を使って明確に説かない
(理性的に語らない)けど自然派生的に生まれる
秩序を美徳としていたと言います。
そこには真心や素朴な人間性という、
ルール・論理・教義化されないものが
共有されている、と。
それって理想ですよね。
宣長はこの状態で初めて
人間の本質が開花するのだとか。
頭でっかちになった現在、ちょっと難しそう。
しかも年々「漢意の教祖」と「信者」は増えるばかりだし。
そこで
「じゃあ、理性万能時代に一石投じてみるか」と
今みたいな場の形成に着手したわけです。
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