2015/10/31

架空の交流ではなく、身体表現としての対話を



閉鎖的なコミュニケーションが
一般化されている中、僕のFCは対話型。
場の形成を目的としています。



その場を迎合的な空気にしないためには、
境界線である加減が必要。それによって初めて、
我々は開いたり、閉じたりすることが出来るのです。



これは企業と消費者との関係性もそう。
売り手(企業)と買い手(消費者)は
水と油、対極の位置にいますよね。



近すぎれば離れられ、
遠すぎれば、忘れられる。
高ければ良いわけでなく、
安ければ良いってもんじゃない。



価格、距離感、関係性。
これをいかに「丁度良い感じ」に馴染ませるかが
大事であって、その均衡点は常に揺らいでる。
境界線とは、そこに注目する技術です。












一見難しそうですが、
この国ではこういった境界線の概念を
無意識的に掴んでいました。



例えば以前書いたように、場とは「庭(は)」であり、
庭という境界線によって、共存空間を作り出していたんですね。



家というものは、生育環境である以上、
個人の精神生理や空間環境を決定します。
ある意味、家は「母胎」と言えるでしょう。
それと世界をダイレクトに繋がず、
庭を作ることでワンクッション置いてたんです。








しかし高度経済期に入り、そういった
日本家屋ではなく、団地建設やマンションなどが
新しい「家のモデル」となります。



ニュータウンに新築の一軒家。
高級団地で便利なライフスタイル。
それらを「憧れの生活」だと
コマーシャルによって刷り込まされてきた結果、
他者(世間)との精神的な距離感が遠くなる一方、
物理的な距離だけが近くなった、と。



だから大勢の人の中にいて、
孤独になってしまう人がこれだけ増えたのでしょう。



そもそも、これらの建設モデルは
イギリスの「牢獄」の概念。
大勢を管理する為のシステムなんですが、
あまり知られてはいないようです。



☞☞



昔は近所の人と「垣根越し」で話したり、
庭にある縁側で交流していました。
自然についても同じように、
庭が自然と人間が交流する場所だった。
仏壇や神棚も「人と神」交流の場です。



そう考えると、あらゆる共同体の中に
「あいだ」が抜けてることに気が付きませんか?
僕は二項だけでは統合ができず、
衝突を繰り返すだけだと言っているんですが、



その理由はこういった「繋がる場」が
失われているからなんですね。





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