2015/10/02
【和の哲学】場の形成について②
こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に引き続き、和の哲学
「場の形成」二回目となります。
さて、場というものは見ることができず
曖昧で、ハッキリと定義できないもの。
結果、なんとなくの「雰囲気」として
片づけられていたのですが、
実はこの場こそ、ビジネスの一番大事な
要素だったと、気づいたんですね。
「多様化と個人主義が先行する現在では
昔のような一致団結や一枚岩はできないよ」。
そう思われる経営者も多いでしょうが、
それは別に悪いことではないんです。
むしろ、以前のようなトップダウンの団結がペケ。
(人材育成コンサルもよく間違えているのですが)、
昔のような組織イメージをゴールにしてはいけません。
それは単に、過去の成功体験に頼っているだけ。
復古主義的な組織回帰ではダメなんです。
なぜなら、以前の組織の大半は必ずリーダーや
トップの意図があり、それが絶対的だったから。
その意図とは「予め用意されていた正解」。
だから、あとはそれにタッチアップするだけだったんですね。
(言い方が厳しいですが)
その結果、損得合理的な関係性が強く働きます。
イエスマンや派閥もそこからの派生でしょう。
つまり、以前の団結は距離が(常に)近すぎた為、
離れることができない共同幻想組織だったと言うこと。
日本の歴史を見れば、その癒着性と幻想によって
内部腐敗や致命的なミスは、見て見ぬふりだったのですが、
結果、全員がゆでガエルとなりました。
つまり、そういうことです。
☞☞☞
半面、今の時代は正解がなく、
それぞれが作り出さなくていけません。
だからこそ、誰のものでもあって
誰のものでもない「場」が必要ではないでしょうか。
これが「一即多」の原理であって、
絶対矛盾が同一しているのです。
なぜなら自分と他人、主体と客体が同時に属している
「場」において、瞬間刹那に発生している「拍子」という
その気配を、「個人」が直感で感じ取っているから。
その直観によって、場に応じ言葉を選び(選ばれ)、
全体が組み立てられるということは、
場においての主体は「自我(わたし)中心」ではなく
「場所が中心(主語)」であって、そこに「わたし」という
述語がくっついて表現されるという図式になるんですね。
つまり主体と客体が逆だということ。
場所が全てであって、そこから派生している。
難しい書き方をすれば、生起表現された事象は
「主語のない主体」が所有することで、
固定化されない動詞的状態(志向性)だけがある。
そんな場とは「コトの動き」である以上、
「わたし」や「あなた」といった固定された主語はありません。
つまり場の形成とは、そんな「コトの動き」を
共有する「私たちが存在する」ということです。
主語が逆転するというか、
「主語(わたし)」というものが非常に曖昧になります。
(詳しくはこちらから)
これが西洋(I am)には理解が難しい。
なぜなら、主体(私)が確立された文法なので、
どんなときにも「私は~」になってしまうのです。
☞
誰のものでもあって、誰のものでもない。
そんな場(間)の共通認識をする「わたし」です。
(めちゃめちゃ簡単に説明しましたが)
これが「場の理論」となります。
「後記」
ちなみに、共同体内のコミュニケーションは
あまり気にしていません。
加盟店同士の距離とか関係性を
深めるため、リアル・ネットなど様々な
ツールがあるんですが、距離感とはくっつく為のものではない。
そもそも、媒体が何であれ、近くなる人は
どんな状態でも勝手に近くなるもんです。
こちらからあえて詰め寄らせなくて良い。
そういった意味では公私混同的な媒体を
強制的にやらせなくても良いと思ってます。
「拒絶しながら求める」。
これが現代の病理だと思ってるんですが、
そんな無意識的に感じる寂しさと
自己承認の欲求という、アンビバレントな
感情に苦しまない「距離加減」を学びましょう。
否、学ぶというよりも・・・・
失礼、最後は脱線でしたね。
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