2015/09/22
9月22日、つぶやき
極論かもしれないが、
人間関係というものは信頼ありき、
信じ合えなければ必ず終わりを迎えるだろう。
それは物質面ではなく精神的な支え合いであり、
他人の痛みを感じる心があるかどうかの違いである。
他人の不幸は蜜の味がする人は
その痛みを感じていないからに他ならない。
では悪党の不幸かどうか。
天罰よろしく、胸が晴れるではないか、と。
無論、僕も腹の中でざまあみろと舌を出すだろう。
しかし、その悪党というものの定義が
単に自分にとって都合の悪いものだけならば、
また話は変わってくる。
ここに内省の本来がある。
つまり内省とは、見る対象のことではない。
それを見る自分自身の「まなざし」そのものである。
そのまなざしを疑うことなく、自己正当性を
押し付けるならば、この世界は四面楚歌の
不自由な世界に映るのは間違いない。
自他の間に存在する距離と、その加減を忘れない配慮。
これが信頼や自由に通じるのではないだろうか。
我々が話す言葉も同様、話す本人が
まず信頼されなくては、その言葉に力はない。
どれだけ内容があろうが、感情が動くような
メッセージを発信しようが、その信頼の担保は
本人の生き様であり、あり方である。
なるほど、言葉とお金が似ていると言われるのは、
そのどちらもが「信用」によって成立し、それが
増殖しながら「流通」する性質だからだろう。
見れば、今の言葉は流通と増殖だけである。
インターネットを見れば、そこには肝心な部分である
発信者との(への)信用関係がない。
それは匿名性によるものだろうか、
それとも上記のような正当性のまなざしのせいだろうか。
いや、多分にその理由はもっと違うところにある。
多分、それこそが現代の根幹であり欠陥なのだろう。
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