一定の秩序なき振る舞いは
人に感じてもらうことも、分つ事もできないだろう。
我々は外的世界に対し、仮面をかぶる。
化粧よろしくそれは化けることであり、作るもの。
故に、その仮面の奥はトルソーである。
内部と外部を繋ぐ薄い被膜。
まるで心を端的に表しているように見える。
果実だってその実を守るため、薄皮を纏う。
なるほど、人間もまた皮膚で覆うことで、外部の侵入を防いでいる。
内部が外部に直接接触すれば、当然傷もつくだろう。
生命は自らの周囲に城壁築き、守っているのだ。
果実の表皮は果実と呼べるか。
無論、それもまた果実の大事な一部である。
現在、自らが化けた皮を剥がす行為が
自然な自分だと思われているが、疑問である。
それは生理的な姿ではあるが、
精神の姿とは呼べないだろう。
内部をむき出しにして傷つくことを恐れぬのは
勇気ではなく単なる蛮勇。
さながら、車道に飛び出す猫である。
欲望という生理的なものに忠実であることが全てじゃない。
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現代は心理学によって心の奥の奥までも
外的世界に情報として、表現しようとしている。
見えないものの対処に悩む現代人が
マインドの世界やメタフィジカルへ
向かう(逃げ込む)のは必然の流れだろう。
それは「空間的な見えない隙間を埋める」という
理性からの救済であるだろうが、そもそも
精神は見て読んで知るものではない。
酒や芸術と同様、味わうもの。
味わいに客観性などないのだ。
潜在的なところを顕在化しても
それは犯人の一部(もしくは影)でしかないのだから。
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心のことは心で尋ねるのが本来である。
それを脳で理解しようとするのが心理学だろう。
心は脳に存在しているという唯物論、前提違いである。
それは決して、測ることができないものだ。
精神は物質のように計測することができない。
では計測できないものは存在しないか。
否、単に物質という枠からはみ出ているだけなのだ。
一定に留まることなく、内へ潜り外へ向かう。
例えば、悲哀の精神は外に向かわず、
内に向かって心を噛み続けるように。
その様はそのままでは理解することはできない。
故に、一定の秩序なき振る舞いは
感じてもらうことも、分つ事もできないのだ。
そんな本来の内的な孤独や哀愁を
無常の美としたものが、もののあはれだろう。
震災後の悲しみから立ち直ったのは
あはれ、日に新たにの精神かもしれない。
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