2015/06/23
加速する時代を眺める②
先日は夏至。
もうすぐ6月も終わろうとしている。
水筒の水ではないけれど、今年も
あと半分しかない、と思う人もいれば
まだ半分もある、という人もいるだろう。
ただ、僕を含め「もう半分も過ぎたのか」と、
思ってる人が多いのではないだろうか。
まさに現代は「せっかちな時代」、
せっかちとは本来、「急き勝ち」のことである。
「勝ち」は勝ち負けではなく、癖のこと。
なるほど、我々はいつしか待つということが
耐えれない癖がついているのかもしれない。
ビジネスのリズムも早ければ、技術も速い。
見切りも早ければ、刈り取りも早い。
新卒者であっても、即戦力を求められる。
まさに、「プロ」の世界である。
しかし、酒の発酵や果実の熟成などは
必ず一定の期間が必要となってくる。
人間だってそうだろう。
十月十日という時間を待つことで、
命は形成されていくのだ。
経済成長という国家の壮大な理念によって
待てないことが正当化されている。
全ては成長の為に、と。
ただ、経済成長率のトップ10のほとんどは
リビアを始め、内戦や独裁国家、貧しい国である。
この「成長率」のをカラクリを
知らない人は多い。
我々は、成長と聞くと疑うことなく
「良いものだ」と思いがちであるが、
当たり前に使う言葉であるからこそ、
その意味を深く理解しなければならない。
☞☞☞
「いいじゃないか、それは良い未来を
早く手にしようとする積極的な態度だ」と
言う人もいるだろう。
確かにそういう面もある。
しかし、個人的にその「未来」の前提には
大きな間違いがある。
そういった姿勢は、実は本質的な未来を
視野には入れていないのだ。
なぜなら、それは自分の頭の中だけで
組み立てた枠内においての「未来」であって、
それを一刻も早く手にしようとする態度に過ぎない。
言わば、未来を待ち受けるのではなく、
迎えに行くようなものだ。
であるならば、それは未来ではなく、
予め決定した視野の中にある「計画」の決着と言えるだろう。
☞☞
フッサールは「未知は既知の一様態である」と
言っているのだが、本来のそれは不確定である。
もし、読者の皆さんの中に計画通りに
人生が進んでいる人がいるなら、一度お会いしたい。
多分、そんな人はいないだろう。
完全な「自主制作」など、できない。
自ら作りながらも、自ずから作られるものだ。
理念などの意思(志)というものは
不確定な未来に対する、志向性だけれども、
それは未来完了形の先取りではない。
紆余曲折するときもあれば、全然予想外の
方向へ向かってしまう事だって大いにある、
それが普通である。
そこで過剰に「確定」を求めれば、
些細な現象や変動を見逃すまいと
過剰に感応してしまう。
そうなると、事態の変化に対する過敏さによって
逆に認知そのものが不能になってしまう場合もある。
なるほど、
佐々木小次郎は「待つ」ことが純化しすぎて
待つ以外、考えれなくなったのだが、
そういった精神は現代の病理に
通じるものがあるような気がする。
☞☞
もちろん、これは流されても良いという
安易な答えではない。
それはひたすらの受け身である、
この「待つ」姿勢に対する、信仰と覚悟である。
例えば、育児ほどこの「待つ」が
求められるものはないだろう。
どんな子に育つのか、それはわからない。
期待と不安が入り混じったまま、親は待つのだ。
やがて待っていることすら、
忘れてた状態で「待っている」。
その時、我々は自分を超えたものに
従っているのだろう。
「後記」
現代はスピードの速さに体が慣れてしまい、
何かにつけ、飽きっぽくなっているようだが、
それは本来の人間ではない。
せっかち同様、時代から植えつけられた癖である。
大量消費至上主義において、
知らないうちに一つの物を使い続けることが
できなくなっているのだけでなく、
何かを継続して続けていくことができないのは、
時代の影響でもあるだろう。
消費者の感性が変わってくれば、
欲するものも当然、変わっていくはずだ。
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