2015/04/09

不易流行





さて、近代の発想の仕組み(根幹)は
例えるなら飛行機の様なもの、


言わば前へ前へと突き進むことによってのみ
高く飛べるという志向性なのですが
そこに絶対的な価値を置いてしまっても、
心の感覚は鈍くなるだけではないでしょうか。


現在は文字通り「新しさ」に流されていて、
子供の玩具同様、すぐに飽きる性格を持っています。
我々が「飽きやすくなった」のか、それとも
対象そのものが「浅薄」なのかはわかりませんが
消費(コモディティ)が大きく口を開けてて、
そこから逃げるようにイノベーションをやってる気がするんですね。


菊池寛の「極楽」はこれを
実にうまく書いています。



何の苦しみもなく寒さも暑さも感じない極楽に
二人仲良く行った老夫婦、
蓮の花の上で座ってばかりの毎日で、
やがて最高の世界「極楽」が退屈になってきた、と


納得。
虹だって、しばらく眺めていたら
飽きてきますわな。



てなわけで前回に続き、二回目です。







さて、新しさというものだけに価値を置き、
人為的な創造を繰り返している現在は
不易流行の「流行」だけを追い求めていると言えます。


不易とはいつまでも変わらないもので、
流行とはその時代時代の新しいもの。


勘違いする人が多いのですが、
これは流行を否定し、永遠に変わらないものを
求めよ、という意味ではありません。


新しさを求め、変化する流行の中にこそ、
永遠である「不易」の本質がある、と芭蕉は主張しているのです。



俳諧は和歌と違い、聖俗が混然一体となって
成立しています。高貴さと日常、本質と刹那、
重大なものと軽少なものが組み合わされています。


つまり、流行を捨てた所に不易が
成り立つのではなく、常に流れながら
聖俗入り混じる「流行」を追求する中に「不易」は成立する、と。



ビジネスだって似たようなもんでしょう。
毎日哲学的な論考や会議をやっている
会社なんてないわけで、自由な時間を
与えられれば雑談が大半になるはず。


ただ、そんな「他愛無い雑談」の集合体が、
実は一番、和気藹々とした場を作ってるんじゃないかしらん。


この見えないものは
新しさより先にくるんじゃないでしょうか。










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