日本人にはアイデンティティがない、
これはずいぶん昔から言われる事です。
しかし、これは厳密には異なります。
本来は、場の空気をアイデンティティより優先させているのです。
ルース・ベネディクトの「菊と刀」でも、
この国に脈々と流れる精神性が露わになっています。
それは美であり醜の根源性でもあります。
ここにこそ、我々に必要な答えが隠されているのです。
全体の俯瞰によってその欠片を探してみましょう。
と言う訳で、リーフ理論、花伝書「破」、開演でござーい
さて、この国は、取り入れ、問い、編集し、出す、
を繰り返す事によって、常に変化し続けています。
この国が「方法の国」と言われるのは、こういった
同一主語を繰り返し回帰し続けているからです。
丸山眞男は外来思想を度々修正する、という
変化の仕方が変化しないのがこの国の特徴であり、
その意味で日本人は常にキョロキョロしている、と指摘します。
つまり、常に新しいものを外部に求めながらも、
その求めている自分自身は一向に変わらない、と。
これがこの国の「振る舞い」であり、
この国の基本パターン、と言う事です。
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「いや、俺は完全に自分ルールで生きている」と
反論する人もいるでしょう。
しかし、この「いや、俺は・・・」のような
反応こそが、なによりの証拠なのです。
本当に自分ルールだけで動いている人間は
「外部の意見」なんて、気にも留めないし、反応もしません。
こういったブログも見る事はないでしょう。
そんな事から、この国は外部の世界の変化に
対応することに、なんら躊躇いがありません。
それは自己同一性の精神が高い為、
自己と他者の境界線が曖昧になっているのです。
鬼畜米英から、アメリカ万歳、と。
その変わり身の早さはピカイチなのです。
これが欧米のような絶対的な原理や、厳密性を
追及するようなものであれば、必ず対立するでしょう。
それが絶対であればあるほど、その溝は埋まらず、
訴訟であったり、力によって押し通そうとします。
反面、この国はその「溝」を重要視しているのです。
己の一貫性よりも集団の場の親密性、
長いものに巻かれる、という態度は日本人のお家芸、
それは受動的な態度による親密度の表れであり、
丸山眞男の言う「超国家主義の心理」の事です。
絶対的な価値対象に「寄り添う距離」によって、
自分の役割や力関係を決定する、と。
自分で正しい道を探し、判断を下すのではなく、
「正しい判断をしてくれる人」を探し、その身近にいることを優先するのです。
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こんなことは何年も前から分かってます、
多くの研究者が指摘してきているのです。
しかし、そんな貴重な意見や知恵を自己に取り入れ、
繰り返し言及することがなかった。
常に「より新しい情報」ばかりに目が向き、
それを取り入れる事だけが目的化してしまった。
つまり、常に新しいものを探しまわり、
それに対し「そこそこの編集する」、
そんな日本人の本質は変わっていないのです。
不幸な事に、世界の基準には順応できるけれど、
肝心の自己からは「世界基準」を提唱していない。
相対的な優劣性や劣等性が養われた反面、
絶対的な価値対象を自ら提示することができない。
外部には答えはない。それでも外部に求めてしまう日本。
実にもったいないとは思いませんか?
さて、いよいよ次回、これを一刀両断、断絶します。
花伝書「急」、お楽しみあれ。
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