「度を過ぎた徳は害をなす」
これは伊達家の家法(壁書)の中にあるものです。
仁過ぐれば弱くなる、義過ぐれば 固くなる
礼過ぐればへつらいとなる、智過ぐれば嘘をつき、
信過ぐれば損をする
こういった「分度」は、加減の定義として
度々お伝えしていますが、これがなかなか体現が難しい。
なぜなら経験によって得るものである以上、
知識として頭に入れただけでは分からないから。
僕自身、「人としての正しさ」に対し、
それが独善的なものなのか、ネグリの説く公共善なのか、
未だに分からない場合があります。
絶対的な価値なのか、相対的な価値なのか。
それは抽象度を上げれば上げるほど曖昧になる。
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上げれば上げた分、良いというものではない。
(スピリチュアルに傾倒すれば、現実逃避してしまうのと同じように)
よって、それが不可知論にならないためには
「根と翼」を同時に持たなくてはいけないのではないでしょうか。
例えば、商人は片手に崇高な理念を持ちながら、
もう片方にはソロバンをはじかないといけないように。
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善悪すぎれば同じ環の中。
人間は善悪二元論を同時に備えた
「境界線(間)」として生まれています。
よって境界線を広げる(超克する)寛容とは、正しい精神と言えますね。
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