unreveの間の概念とは
鈴木大拙の言う「即非」に近い。
「どっちつかず」という言葉は
一般的に優柔不断的な意味で使われるが、
即非は、それを「どっちもどっち」を説く。
どっちも自分であり、且つ
どっちもが断定できる自分ではない。
そんな矛盾の統合した理論が
即非なのだが、実はすこぶる日本流なのだ。
例えば「手前」と言う言葉がある。
「手前どもは・・・」という謙った時に使われるが、
喧嘩する時には「テメェ、この野郎」と
立場が逆になってしまう。
「貴様」と言う言葉も思えば変だ。
罵る相手に「あなたさま(貴様)」と書く。
己もそうだし、「ジブン」もそう。
つまり、日本流は主客がコロコロ変わるもの、
否、常に主客を「行き来」するのだ。
これは「I am 」を使う欧米人には分からない。
近代自我は、こういった自己と他者の
「間」という三人称概念から、一人称へのシフトである。
これが対立の根幹であり、多様性を
阻害していることは間違いない。
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加減の定義は即非的である。
対極二項が交わった所に、実体(真理)がある。
人間は善悪の混じった「状態」である。
宗教はそこに、スパッと線を引き、
白黒つけてしまうが、
本来、我々は境界線が実体である。
常に揺れ動き、葛藤する存在なのだ。
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世界は天秤のごとく揺れ動く側面があるが、
面の思考でとらえれば、メビウスの環である。
対立概念は、白と黒のように、別の所に
あるようだが、そうではない。
独善が悪に変わるように、
一極の先に向かうと、クルリと反転する。
つまり二項は同じ環の中にある、と。
ウロボロスの咥えているのは己の尻尾なのだ。
真理は矛盾の中から掴むもの、
いわんや思想をや。
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