2015/02/08
教えるなんて
最近の対話から
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「教育って教えて育てるって書くでしょ?」
「そうですね」
「でも本来人が人に教えるなんて、おこがましい事と思いませんか?」
「おこがましい・・・ですか?」
「私は教えるという立場にはいたくないですね」
「でも教師とか生徒に教えますし、色々経験した人は確実に経験豊富ですよ」
「経験って言っても、絶対的な情報と相対的な情報からのものがありますから」
「ちなみに絶対的なやつとは?」
「それは科学的な知識ですよ、足し算とか、掛け算とか」
「?」
「100人中、100人誰でも同じ結果が出る、それが絶対的な情報」
「と言う事は相対的な情報は非科学的なやつですか?」
「定義できない人間の生き方全てですよ」
「定義できないモノって言われるとちょっと難しいです」
「例えば「●●は○○すべき」とか言うでしょ?」
「言いますね」
「私はそれって絶対的なの?って思ってしまうんです、人や状況によって違う」
「べき論ですか・・・それは常識、社会通念みたな?」
「それも含めてですね」
「でも僕もそうだし実際そんな人多いですよ」
「そう、仕事だけでなく人に教えるという行為はとても多い」
「そんなことしてたらダメって事ですか?でも相手の言葉で救われたとか、助けてもらったなんて話も」
「教えるだけの極端な立場の人を見るとそう思いますね、私は」
「導いてくれる人がいると結構心強いと思うのですが」
「もちろん私にも経験があります、ただそれは教えるという立場ではない」
「立場の問題ですか?」
「そう、例えば善行を教える立場の人間は100%完璧でしょうか?」
「先生とか、宗教・思想家、政治家に近い立場ですね、確かに違います」
「失敗が全くない人なんていませんし、未熟な部分は必ずある」
「そうなってくると完璧な人間なんていませんよ」
「そう、だからこそ教える・導くというのはおこがましいんですよ」
「(禅問答みたいだ)うーん・・・じゃあ、相手の才能を「引き出す」っていうのは?」
「引き出すのもおこがましいです、相手の能力を全てを知ってるなら別ですが」
「それって自分で勝手に見つけて生きろって意味にも捉えられませんか?」
「例えば育児って基本的に親の仕事でしょ」
「そうですね」
「育児を「育自」と言う人もいます。つまり子供を通じて自分を育てると」
「育自ですか、なんとも謙虚な」
「そうですよ、全ての人は全ての人から育てられる、だから立場は公平なんです」
「育つのはお互い様で、相手がいてこそ・・・・という意味ですか」
「そう、反面教師というのは相手を見て自分を育てるでしょ」
「でもそこにはルール・・普遍的な決まり事がないとダメですよね」
「白黒って事ですよね、じゃあそれは誰が決めるのでしょう?」
「自分で決めると自信過剰になって独善になる気がします」
「では他人が?」
「他人が決めると宗教のような拠り所となって、そこから外れる人が全てダメになる気が」
「そうなると、どっちもダメって事になる」
「うーん。かと言って自由放任は過去の歴史で失敗してますしね」
「自分中心もダメ、社会中心もダメ、ルールなしもダメ」
「極端なダメじゃないんですよね、ただマニュアルは作れないというか」
「その白黒ハッキリしたマニュアルって、誰か作れますか?」
「あっ・・・なるほど。最初に言ってた言葉ってそういう事ですか」
「私は真理はあると思いますが、一人の聖者が理論理屈で教えられるもんじゃないと思うんですよ。人を見て自分で理解する。何が良いか悪いかなんて本来他人に教える時点で捉われる気がするんです」
と、まあ色々な分野に通じる内容でした。
さすが年の功。
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