以前、動機について記事にしたのですが 、
今年に入ってずいぶんと認知度が上がってる気がする。
「好きレベル」から「ハマるレベル」へ。
これってなかなかどうして、再現性が難しい。
ただ夢中、ただ無心。
今までの人生で2度ほど、経験したけれど記憶は朧。
説明しようにも、何となくの感覚しか分からない。
ただ、明日はどうなるかとか、この国がどうだとか、
顧客がどう思ってるかとか、 お金がどうだとか、一切頭になかった。
時間の概念もあやふや、
なるほど、だから夢中なのだろう。
そんな直覚を仏教では「三昧」と呼ぶ。
フローもまた、同じような状態である。
何かに対し、無我夢中になっている際、
人間には自ずと働く知がある、それが三昧だ。
この状態においては「我」が発生していない、
ただ、意識がなくなるのではなく、我が対象に埋没しているのだ。
つまり主客未分の境地だと言える。
この対象の移入による「主客一体」の状態で
人間が認識しているものこそが、真の「現実(実体)」だと言われる。
これは建前のない動物の生き方であり、
あらゆる哲学者が「美」の象徴にしている。
それ以外の状態では、前回カントを例にしたように、
必ず思考のフィルターにかけられ、現象となる。
つまり、ありのままの現実を見るためには
フィルターが邪魔であって、逆を言えば我々は本来それが出来るのだ。
創造と三昧を同一化してはいけない。
創造とは客観的世界に存在しないものを生み出す事であり、
三昧とは「すでに存在しているものの潜在性を取り戻す」事。
そして直観による行為を伴った時に初めて、
根源的倫理と呼べるものがあるのだ。
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