日本人は希望(理想)と現実が交差すると、
希望的観測の方を優先するという特性がある、と言います。
それはある種の「思考癖」とも考えられ、
思考の方が現実と思ってしまう(現実を覆う)ある種の錯覚です。
例えば何らかの不安要素から生まれた将来の「リスク」。
年金や雇用問題や健康、色々あると思います。
しかしそういった現実の問題の多くを直視せず、
「それが現実にならないでほしい」という「希望」が優先されるんですね。
つまり願望や希望が思考の最優先事項になると、
現実を見誤る可能性が高い。
楽観的観測は人生の処世術だという考えは僕も同感です。
常に「ない」不安に怯えるよりも「ある」ものに目を向けるのはとても大切。
僕らは希望を糧にして生きているバクのような動物のようだ、と極端な事を言う人もいますが、希望も夢もなくなった場合、人生がとても苦しいものになってしまいます。
ただ、この思考も同様、光と影を生みます。
状況がガラっと変わった場合、その場に応じて判断し、行動する事が出来にくくなります。
足が止まってしまい、希望的思考だけが現実を覆ってしまう。
そうやって徐々に弱ってくる「ゆでガエル」の状態が影の部分です。
なぜ人は行動できないのか?
それを以前知りたかった時がありました。
(暇人ですね)
漠然としてますが、結局日本には
原理主義が浸透しなかった事が大きな理由じゃないでしょうか?
日本人は原理原則に向かって行動を起こせないと言われています。
なぜなら人生の大原則の起源は宗教から発生するものであって、
7割が無宗教と答えるこの国には浸透しないんですね。
その点キリスト教圏の国は原理・原則に則り、行動します。
モーセの十戒のように、禁止と強要が原理原則として存在し、
それをやらない人間は神に反している、と。
国民性としてそういった原理原則主義が強く根付いているので
ストライキやデモ活動や革命の多くは原理主義の国です。
その点日本は憲法が原理=原則となっています。
憲法の原理は福祉、つまり公共の利益です。
悲しい(?)事に公共の「公」とは「おおやけ」と読み
昔のおおやけとは「大きい家」、つまり「権力がある人」の事だったんですね。
つまり政治家をはじめとした「国家」が公(おおやけ)であって、
「お代官さまが一般人に苦しい思いをさせる訳がない」、というのが日本の原理原則にあった。
それが希望的観測や権力への依存を生んだ理由なのかもしれません。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b
さて、本来原理とは重力のように、この世の根本的な法則であって、
それに沿って基本的ルールを見い出すのが原則のような気がします。
だから「原則としてはこうだが・・・」という意見があるように、
例外が発生する場合がある。
その「例外」とは震災、戦争、政治の破綻、
国家の破綻等のマクロ観点だけでなく、個人の事も含め様々です。
その時にどうやって行動を起こせるか?これが難しい。
自分の中の原理は何なのか?そしてそれは原則的に正しいのか?
それがないから何に従っていいのか分からない。
さらに過去の歴史背景上、人に任せてしまって行動が起きない、
「そのうち誰かが(政府が)うまくやってくれるだろう」という希望的思考です。
僕もそういった思考態度の部分が消えてませんので
改めないといけないです。
それを知る為に過去の歴史からひも解いていったんですね。
(それはまあ、個人的な趣味の話ですが)
話は逸れましたが、こういった思考は、
古来から受け継がれた「癖」の可能性があります。
行動を制限するのは自分の中だけでなく、
風習からくる無意識の癖もある。
それを知る事も大事かな、と思ったグッさんでした^^
ではでは。
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