unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^
現在、広告の反応率は下がる一方ですね。
せっかく高額な宣伝費を使っても回収できていません。
FC展開や代理店募集でも、数百万の予算をかけた結果、
問い合わせ0、という話はよく聞きます。
そこで今日はリゾーム派生の「拍子」についての小話でも。
☞ ☞ ☞
さて、どんな有名店でも、メディアに取り上げられたお店でも、
CMをバンバン売っても奇抜な看板を出しても、
今の時代はすぐに忘れてしまいます。
これは自分を消費者側に置き換えれば分かりますよね。
ドラッガー著書「ネクストソサエティ」で説く
新しい社会とは、組織から個人の時代だと言われます。
それは知識労働者が生み出す生産が、そのまま直接
企業の生産性につながるようになり、
知識の価値(知価)が企業の新しい資本となるのだ、と。
これは概ね外れていません。
情報量が膨大になって忘れやすくなったと書きましたが、
これは情報量から情報価値(量から質)へ、
そして固定から流動化しているものに
人は注目している、ということでしょう。
☞ ☞ ☞
そもそも人の認識(知覚)とは
固定しているものをあえて認識しようとは思いません。
例えば、彼女が髪を切ったりイメチェンをすれば
鈍い男性陣でも、その変化は分かります(笑)
しかし彼女のほくろの位置を見て
「あっ、ここにほくろがあるんだ」とは思いません。
企業の情報発信も同じです。
いつも通る道にある看板を見て毎回、
「あっ、ここに看板がある」なんて思いませんよね。
つまり情報が増えれば増えるほど、
固定した情報は無視されるのです。
広告宣伝にお金をかけても、やがて一部となる。
デジタルサイネージにせよ、屋外看板にせよ、HPにせよ、
複数回振り返す同一情報は、今後反応しないのです。
大手はマネジメントによって統制・管理しすぎています。
だから中小の「個の発信」が出来ません。
ここが大手が手の届かない「隙」なのです。
また、その隙は組織構造上、埋められません。
☞ ☞ ☞
形式化された自社、自店の味のこだわりだけを発信しても
消費者からすれば、その違いが分かりません。
大手のように、投資回収期間や収益モデルだけ示しても
結局は数字(損得)だけで判断されてしまいます。
ブログ、HP、その他SNSなど、媒体は何でも良いです。
あくまでもそれは手段、大事なのはその内容と流動化です。
何も書かない、何も言わないと言う人もいるでしょうが、
例えば会社の中にそんな人がいたらどう思うでしょう。
「一体何考えてるんだろう、この人・・」と思いますよね。
そこからコンタクトを取ろうとは思わないはずです。
商品の情報発信だけでは、身長や体重や
持ってる資格だけを話しているようなものです。
自分の事を話す、個人を発信する。
「こんな人なんだ」と思えば、ネットであれ距離は少なからず縮まります。
絵に描いた餅ではない、あなたの想いを発信しましょう^^
最後までお読み下さってありがとうございます。
この話が少しでもお役に立てれば幸いです。
2014/08/21
2014/08/04
窓際のジッドちゃん
ども、unreveのグッさんです。
今日夢の中で「ジッド」という言葉が出てきまして(笑)
アンドレ・ジッドの作品を読んだのはずいぶん昔、あまり記憶になかったんですが・・・( ̄_ ̄ i)???
まあ、これも記事にするのは面白いと思ったので
勝手に書いてみます(いつものことです、スイマセン)
さて、読んだ記憶のあるのは、代表的な「狭き門」とか「法王庁の抜け穴」とか「贋金つくり」ですが、古本屋に全部売っぱらったんで、思いだしても「無償の行為は・・・」しか思い浮かばない(笑)
ただ、ジッドは「自分が自分である権利」というのにかなりこだわっていたような。
若い頃のジッドは、結構なナルシストで、
自分で日記を、それを観察することに夢中になってたんですよね。
つまり「自らを読む」という、語り手でもあり、受け手でもあった。
まるで最近のグッさんのやってる事みたいです( ̄∇ ̄+)レベルハヒクイヨ
また、ジッドがしきりに言ったのは「共感」という自分と他人の共存の在り方。
「同じものを共に見る事ができれば人は理解しあう事ができる」と言ってます。
(だいぶ切迫した、ある種の強迫観念に近いのですが・・・)
共感とは言葉だけが一人歩きしてますが、
集団によってはちょっとずれてます。
その「ズレ」の部分を僕なりに推測してみます。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b
さて、僕らは共同体の共通感覚(空気)を読みながら
それに付随するように言葉を使用する、という習慣があります。
だから、その枠を超えた評価ができなかったりします。
言ってみれば「村社会」の共同性です。
会社というのも一つの「枠」として存在してますし、
全てのコミュニティはこういった「見えないけれど制限された枠」がある。
枠に自分の価値観をはめ込んでみても、
ネジ穴に針を入れるようなもんで、ピッタリとは固定しません。
そもそも人の価値観っていうのは簡単に言えば「自分の好き嫌い」であって
長い人生を生きてく中での「これは好き~」と「これ嫌~い」の取得選択の結果生まれたものです。
一人一人が違う「枠型」を持っているので
共感とは言ってみればその「枠型」を理解しないと始まらない。
そう言った人と違った考え方、見方を理解しなくてよい「コミュニティ内での共感」、
そんな気がします。
日本人の意思伝達とは、分かってくれる人だけの「限定会話の成立」をコミュニケーションと感じているのではないでしょか?
やりとりが下手なのは政治家の外交をみれば明らかなんですが、 協調なのか従順なのか分からない感じです。
協調=全てが同じ、じゃないですよ、だって画一化って人間性の欠如ですから。
逆にそんなのが協調なら、集団に属していても心は孤独です。
また、共感とは心の動きであり、相手の対象全てに共感はできません。
例えばグッさんは食べるのが大好きです。
デパ地下のお惣菜なんか見るとワクワクします( ̄∇ ̄+)テラヤバス
「ここの●○が美味しいんだよ」と友人に伝えるとします、しかしその友人は以前食べてあまり美味しくなかった。
「そうかな?そんなに美味しくないと思うけど・・・」と言った場合、
僕は自分が好きだから好みとして伝えてるですが、中にはそこで「なんで?」と言う人がいます。
「そんな訳はない、ここの●○はこんな味付けでこんなに新鮮でこんなに・・・・」と、
それが美味しい(正しい)と言う事を相手に認めさせるのが基準の会話です。」
それがエスカレートすると同じものが好きな人を集め、多数派となったりします。
何が言いたいかというと、自分の気持ちが相手に伝わらない事への悩みの原因が、自分の「美味しい」に対する判断が、ただの好き嫌いなだけなのに「全ての人が認める事実」じゃないのが納得できないからです。
「全員が同じ判断をする訳がない」という基本原則が村社会の日本には欠如しています。
これが心に根付いていないから他人を認める事が難しいんです。
結果、価値観の違う人を排除するという方法や、多数決=民主主義みたいな勘違いが起きます。
右へならい従うか、真逆の位置として反対・批判者になるか、
ずいぶん極端な選択が多く、受容の幅が小さいままです。
僕はよく「自分中心で行こう、小さな自分の価値基準を大事にしよう」と言ってますが、
内部と外部の違いを理解していないとさっきの言葉が「言ってる事が違うじゃねーか」になります。
寛大さは美徳です。「周りに我慢できない人は、だいたい自分にも我慢できない人だよ」とどっかの本に書いてましたが、僕もそう思います。
まとめると異常な画一化、非個性化が幸福だというのは、比較対象を奪い、幸福だと信じこませられているだけで、それは孤独から生まれたコミュニティの帰属に対する一時的な欲求なだけです。
ここでの比較は「個性の比較」であって、比較から来る競争原理ではないです
上記の様な幸福が、希望と信頼と「無知」によって作られているという事実をジッドは批判したような気がします。
ここまで書いても、なんで夢にジッドがでてきたのか皆目見当がつきません(笑)
もしかしたらシド・ビシャス・・・・なわけないですね。
取りとめのないテーマでしたね(本当に)
ではでは、また次回。
Bless you
今日夢の中で「ジッド」という言葉が出てきまして(笑)
アンドレ・ジッドの作品を読んだのはずいぶん昔、あまり記憶になかったんですが・・・( ̄_ ̄ i)???
まあ、これも記事にするのは面白いと思ったので
勝手に書いてみます(いつものことです、スイマセン)
さて、読んだ記憶のあるのは、代表的な「狭き門」とか「法王庁の抜け穴」とか「贋金つくり」ですが、古本屋に全部売っぱらったんで、思いだしても「無償の行為は・・・」しか思い浮かばない(笑)
ただ、ジッドは「自分が自分である権利」というのにかなりこだわっていたような。
若い頃のジッドは、結構なナルシストで、
自分で日記を、それを観察することに夢中になってたんですよね。
つまり「自らを読む」という、語り手でもあり、受け手でもあった。
まるで最近のグッさんのやってる事みたいです( ̄∇ ̄+)レベルハヒクイヨ
また、ジッドがしきりに言ったのは「共感」という自分と他人の共存の在り方。
「同じものを共に見る事ができれば人は理解しあう事ができる」と言ってます。
(だいぶ切迫した、ある種の強迫観念に近いのですが・・・)
共感とは言葉だけが一人歩きしてますが、
集団によってはちょっとずれてます。
その「ズレ」の部分を僕なりに推測してみます。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b
さて、僕らは共同体の共通感覚(空気)を読みながら
それに付随するように言葉を使用する、という習慣があります。
だから、その枠を超えた評価ができなかったりします。
言ってみれば「村社会」の共同性です。
会社というのも一つの「枠」として存在してますし、
全てのコミュニティはこういった「見えないけれど制限された枠」がある。
枠に自分の価値観をはめ込んでみても、
ネジ穴に針を入れるようなもんで、ピッタリとは固定しません。
そもそも人の価値観っていうのは簡単に言えば「自分の好き嫌い」であって
長い人生を生きてく中での「これは好き~」と「これ嫌~い」の取得選択の結果生まれたものです。
一人一人が違う「枠型」を持っているので
共感とは言ってみればその「枠型」を理解しないと始まらない。
そう言った人と違った考え方、見方を理解しなくてよい「コミュニティ内での共感」、
そんな気がします。
日本人の意思伝達とは、分かってくれる人だけの「限定会話の成立」をコミュニケーションと感じているのではないでしょか?
やりとりが下手なのは政治家の外交をみれば明らかなんですが、 協調なのか従順なのか分からない感じです。
協調=全てが同じ、じゃないですよ、だって画一化って人間性の欠如ですから。
逆にそんなのが協調なら、集団に属していても心は孤独です。
また、共感とは心の動きであり、相手の対象全てに共感はできません。
例えばグッさんは食べるのが大好きです。
デパ地下のお惣菜なんか見るとワクワクします( ̄∇ ̄+)テラヤバス
「ここの●○が美味しいんだよ」と友人に伝えるとします、しかしその友人は以前食べてあまり美味しくなかった。
「そうかな?そんなに美味しくないと思うけど・・・」と言った場合、
僕は自分が好きだから好みとして伝えてるですが、中にはそこで「なんで?」と言う人がいます。
「そんな訳はない、ここの●○はこんな味付けでこんなに新鮮でこんなに・・・・」と、
それが美味しい(正しい)と言う事を相手に認めさせるのが基準の会話です。」
それがエスカレートすると同じものが好きな人を集め、多数派となったりします。
何が言いたいかというと、自分の気持ちが相手に伝わらない事への悩みの原因が、自分の「美味しい」に対する判断が、ただの好き嫌いなだけなのに「全ての人が認める事実」じゃないのが納得できないからです。
「全員が同じ判断をする訳がない」という基本原則が村社会の日本には欠如しています。
これが心に根付いていないから他人を認める事が難しいんです。
結果、価値観の違う人を排除するという方法や、多数決=民主主義みたいな勘違いが起きます。
右へならい従うか、真逆の位置として反対・批判者になるか、
ずいぶん極端な選択が多く、受容の幅が小さいままです。
僕はよく「自分中心で行こう、小さな自分の価値基準を大事にしよう」と言ってますが、
内部と外部の違いを理解していないとさっきの言葉が「言ってる事が違うじゃねーか」になります。
寛大さは美徳です。「周りに我慢できない人は、だいたい自分にも我慢できない人だよ」とどっかの本に書いてましたが、僕もそう思います。
まとめると異常な画一化、非個性化が幸福だというのは、比較対象を奪い、幸福だと信じこませられているだけで、それは孤独から生まれたコミュニティの帰属に対する一時的な欲求なだけです。
ここでの比較は「個性の比較」であって、比較から来る競争原理ではないです
上記の様な幸福が、希望と信頼と「無知」によって作られているという事実をジッドは批判したような気がします。
ここまで書いても、なんで夢にジッドがでてきたのか皆目見当がつきません(笑)
もしかしたらシド・ビシャス・・・・なわけないですね。
取りとめのないテーマでしたね(本当に)
ではでは、また次回。
Bless you