2013/09/09
考える事に終わりはなく。。。
科学が横軸の水平なら、哲学は
垂直の高さを知る学問だろう。
我々の人生観、世界観は高さによって深みが出る。
私が心酔する池田晶子氏も同じような考えだった。
彼女は自己練磨のない「あるがまま」を嫌悪した。
著書には以下のように書かれている。
「人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」
「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは「優しい」「思いやりのある」
「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性(認識)である。
その列挙である。それらの属性を担っているところの当の「人間」、
この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。
なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、
常にすべてが「人間」である。
それで、各人勝手に好きな意味を込めて、
この語を使用することになる。
相田みつをの「人間だもの」はその好例である。
失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。「人間だもの」。
私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。
相田に限らない。聞いていると多くの人が、
この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。
「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、
自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。
時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。
~考える日々3より~
今のように正解を求める時代において
「自分で考える」ことのハードルは非常に高い。
多くが自分を考えるということを知らない。
考え方を知らないのではない、
「考える」とは、どういうことなのかさえ知らないのだ。
悩んでいる人の大半はそう、
何となく考えているフリをするが
実際は闇雲のまま落ち込んでいるだけだろう。
それじゃあ単なる自己陶酔の延長である。
考えるとはそんなことじゃない。
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我々はもっと
「why」を問い、考えてみるべきだ。
今の医学が「なぜ生きるのか」を問わず、
ただ長く生きる為の技術が進歩してしまった結果
人間の根源性は徐々に薄れて行ったように、
考えを放棄した先にあるのはロクでもない世界なのだから。
我々がそれを常に考え
自覚的に生きる以外、世界は変わらない。
仮に「なぜ」が無く、理由(原因)なき
存在だとしても、なぜ理由(原因)がないのかを考えたい。
無論、それを知る術は皆無だと
知ってはいるけれど、僕はそういう生き方しかできない。